かいじゅうたちのいるところ

大好きな絵本「かいじゅうたちのいるところ」がスパイク・ジョーンズ監督の手で映画になるときいて、ひとめ予告編をみてから、わくわくわくわくわくわくしていたら、仕事の関係で、完成披露試写会で観ることができた。

観ているあいだ、絵本のことを、一瞬も思いださなかった。それくらい、このかいじゅうたちのいるところは、映画の世界だった。かいじゅうたちは、情動のかたまりだった。楽しいとき、かいじゅうたちはむやみに「楽しい」と言ったりしない(かいじゅうたちのそういうところは、とても動物に似ている)。そのかわりに、かいじゅうたちは自分の身体をびょんびょん空中に投げだす、楽しいことを表現する前に、かいじゅうたちは自分も楽しいことの一部になる。一部になる、なんて言いかた、まだちゅうちょがある。そうじゃない、かいじゅうたちは楽しいことになる。楽しいことを発見することと、楽しいことになることのあいだに、時差がない。それは、ほんとうに、とても、同時なのだ(かいじゅうたちのそういうところは、とてもこどもに似ている)。かいじゅうたちのいるところには秩序があり、内の意識があり、よそものを受けいれたり受けいれなかったりという判断がある(かいじゅうたちのそういうところは、とても大人に似ている)。かいじゅうたちは、文字通り、キメラのように、動物とこどもと大人が痛々しいくらいいっしょくたになった生きものだった。かいじゅうたちは、「同時」そのものだった。

わたしはかいじゅうたちになりたい、わたしはいつだってかいじゅうたちになりたかった、わたしはいつもいつもいつも思っていた、表現することとしてではなく、ことばと同時になることとして、詩をかきたい。そう思っていながら、わたしはかいじゅうたちをみて、ぼろんぼろん、泣いてしまう。なみだは、どうしてもほかに手段がないとき、同時になるために流れる。

楽しいとき、あるかいじゅうは自分の身体を天高く投げだす、あるかいじゅうはほかのかいじゅうを抱えてぽーいと投げだす、投げだされてどさどさと落ちてきて重なって、そのまま気持ちよくなって、ねむくなってきた、といって山と積み重なったままねむってしまう。かいじゅうたちが戦争ごっこをするとき、かれらはそれを本気でする、本気で深い傷を負い、腕をいっぽん失って擬手をつける。

(つづく。)

映画「かいじゅうたちのいるところ」2010年1月公開