一度死んだ、かわいい鏡

土曜日、輸入雑貨の店で、鏡を買った。もう何年も鏡ジプシーだった。最近はかんねんして無印のプラスチックの鏡を使っていた(スタンドにもなるそのプラスチックのふたは買ってすぐ壊れた)。こんどの鏡は、鏡面にすこしゆがみがあって、一か所、白い絵の具の跡のようなのがついている。裏側は肉色あるいはローズ・ピンクの柔らかい紙の板が貼ってあり、角度を180度まで自由に変えられる細いU字のスタンドがついている。ふちは銀色の円筒状の金属で写真立てのふちのように囲まれている。少しこすると、鉄のにおいが指につく。つまり、とてもかわいい鏡なのだ。南フランスの蚤の市から発掘されたものであるらしい。
なにかの空き瓶や、古道具屋で買った木製の卓上本棚やひとりがけのソファ、どこか遠いところで生まれ、自分より長生きかどうかもわからない何かを所有することは、いつ死んだか、いつ生き返ったかよくわからない植物を育てるのに似ていて、たのしくて仕方がない。そういうもの、やられてしまったもの、一度死んだもの、新品でないものを「かわいい」「持ちたい」と思う気持ちはどこからやってくるのだろう。
わたしが東京を(東京で生活することを)好きなのは、ひとつには、古い部屋を借りるという行為のいかがわしさ、たのしさだし、永井荷風のような男っぽい骨董趣味や所有欲と自分のそういう気持ちは、いつも紙一重だと思う。一〇歳のとき引越すことになって自分の部屋ができたのは嬉しかったのに、その部屋に想像より全然かわいさが足りなかったのは、その部屋が新品だったから、その部屋に新しいものしかなかったから、母親が選んだものしかなかったからに違いない。自分でなにかを選ぶことができる(と思える)ことと、一度死んだものを選ぶことができる(と思える)ことは、同じことなのかもしれない。