犬という名前の猫

 スペイン語で、犬はペロ(perro)と言うらしい。(ちなみに、peroはbutで、peloは体毛だそうだ。)このことを私が知ったのはつい最近、スペイン語の勉強を始めたからで、私がスペイン語の勉強を始めたのは、猫を飼いはじめた後のことだった。
 去年の秋、猫を飼いはじめて、ぺろと名付けた。名付けたのは私ではなくHだった。そもそもHはペローニというイタリアのビールが大好きで、ローマでペローニの味に酔いしれてからというもの、日本では取り扱っていないそのビールの味を懐かしがって、事あるごとにペローニペローニ言っていた。猫の名前はいつのまにかぺろになっていた。飼い始める前から、彼もしくは彼女はぺろだった。大塚のシェルターに猫を見に行くと決めたとき、「ぺろがいたら引き取ろう。いなければ退散だ。」と私たちは同意していた。そのときすでに私は負けていた。書類記載上、ひらがなにしたのがせめてもの抵抗だった。

 猫を飼うつもりはなかった。飼いたい飼いたいと言ってはいたけれど、飼えばフットワークが重くなるとわかっていた。何度も、友達から「捨て猫を拾ったので飼わないか」と連絡を受け、その都度タイミングが合わなかったり、いろいろ理由をつけたりして、飼わずにいた。それでもついに飼わずにいられなくなった出来事があった。
 近所に松のたくさん生えた公園がある。夜、コンビニまでアイスやポテトチップを買いにいくとき、いつもその公園の脇を通る。公園は道の右側。道の左側にはコンクリートの敷かれた駐車場があって、夏頃にそこを通ると、駐車場にぺたっと居座り、尻尾を優雅に揺らす大きな白黒猫がよくいた。駐車場の奥の家で飼われている猫らしかった。私はその猫を見るだけで満足していた。ああ、また前の部屋に住んでいたときのように、近所の半外飼いの猫や地域猫とつかず離れずの距離でコミュニケーションをとる日々が始まるのだろうな、それはそれで愉快愉快、この地域が猫のいる地域でよかったなと思っていた。
 ところがどっこい。ある夜、いつものようにその道を通ると、公園の入口に、みかけない子猫がいた。これは、とうとう私にも、捨て猫を拾うという、あの限られた人々にしか与えられないチャンスが巡ってきたなと思った。植え込みの草のなかで無邪気に遊んでいる子猫はなんともinnocentでvulnerableだった。よし、持って帰るぞと思っていると、後ろからHが言った。「それはあの白黒猫の子どもだ。したがってあの駐車場の奥の家で飼われているはず。だとすると、その子猫を持って帰ると誘拐ということになる」。
 言われてみれば公園の奥のほうからあの白黒猫がピカーンと両眼を反射させてこちらを監視しているのだった。いったい捨て猫の神はどこをほっつき歩いているのかなと私は思った。でもやっぱり誘拐はよくないと思った。後ろ髪をひかれまくりながら、その場を離れた。たぶんその瞬間、猫を飼うということは、私のなかで決定事項になったのだった。
 あれから半年以上経つのに、親猫も子猫も、それ以来二度と見ていない。うちにはぺろが来て(ほんとうはケルンかゲルダかフラニーかゾーイがよかった)、やっぱりあの親子が捨て猫の神だったのだとしか思えない。

*今日のスペイン語
スペイン語でperroは犬。perro salchichaは細いソーセージの犬でダックスフント。そして、猫はgato、雌猫はgata。私は猫を飼っている。Yo tengo una gata. No un perro. Pero su nombre es Pero. Ella es una gata negro.

エルヴィラ・シュタイフのための夢想

アドリエンヌ・リッチ

詩集"The Dream of Common Language"より

 

冷たくて冷たくて 私たちの血も
冷たくなった それから風が
死にたえて私たちは眠った

この眠りのなかで話すとしたら
私の声はもう私だけのものじゃない
(私は言いたい 複数の声で)
私たちの息を 風が最後に引き裂いたとき
言葉はいっさいいらなかった
何か月も 何年も 私たちひとりひとりが
自分たちのなかに 「YES」が育ってゆくのを感じてた
それは少しずつ形成されていった 窓辺に立って 待ちながら
電車を リュックを修理しながら 髪を梳かしながら
私たちが学ぼうとしていたことは そのまま 私たちの前に
ここにあった すべての言葉の外に あの「YES」が 集まって
強くなって 自ら発熱して そしてちょうどそのとき
温度のない「NO」に出会った
世界を吸いこむ ブラックホール

あなたが私に向かって登ってくるのを感じる
滑りどめをしたあなたの山靴の底が 幾何学的に食いこんだ場所を 離れて
極微の結晶の上に その跡が巨大に浮かびあがる
コーカサスであなたを追跡したときのように
いまは遠く
前方で 私たちのどちらも想像しなかった 者に
私はなった

風でアスファルトみたいに押しつぶされた白い雪
私の愛した女性は 山に向かって 軽々と投げとばされて
あの青空を
私たちの凍った目は開き見た ストームをくぐりぬけて
私たちはあの青さを縫うこともできた 一緒に キルトのように

あなたは来る(わかってる) あなたの愛と 失ったものと
肉体に結ばれて それからテープレコーダーと カメラと
アイスピックも アドバイスに背いて持って
私たちを雪のなかに埋葬するため そしてあなたのなかに
わたしの肉体はここに横たわっているあいだ
プリズムみたいに光って あなたの目に入って
あなたは眠れなかっただろう あなたは自分のためにここへ登った
私たちは私たちのために登った

あなたが私たちを埋葬したら あなたの物語を語ればいい
私たちのは終わらない 私たちは流れていく
終わらない場所 始まらない場所へ
可能な場所へ
すべての細胞核の熱が 私たちを超えて脈打ってゆく
薄い空気のなかへ 宇宙へ
この雪の下には岩の防護
私たちの思考の痕跡を 奪った この山
本質的な変化と些細な変化
私たちも経験したように
互いをここに運んできたもの
私たちを 互いを この生を選んで
そのひと呼吸ずつ 握った手 次の足場
それはどこかで まだくりひろげられて 続いている

日記にはこう書いた「覚悟はできました
私たち全員がわかっています 私はかつてここまで
愛したことはありません 見たことがありません
私自身の力が こんなにも引き上げられ 共有され
そして送り返されたのを
当初からしつこかった 長いトレーニングの後で
私たちはもはやなんの努力もなしに愛情のもとに動いています

風が 破きはじめた日記の中で
私たちを覆うテントのなかで 私は書いた
「いつも危険のなかにいたといまではわかります
街で別々だった私たちが
いまこの山の上では一緒なのです でもいままでは
私たちは自分たちの強さに触れたことはなかった

私の指から破れた日記に私はこう書いていた
「愛とは何でしょうか
それは何を意味するのでしょうか 「生き延びること」です
青火のケーブルが私たちの体を繋いで
雪のなかで一緒に燃えています 私たちは生きようとは思いません
易しいほうで甘んじるのなら 私たちはこれを夢見ていたんです
私たちの全生命を

 

 

 

 

※エルヴィラ・シュタイフは、1974年8月のレーニン・ピークでのストームによって全員が死亡した女性登山チームのリーダー。後日、シュタイフの夫が彼女たちの遺体を発見し、埋葬した。

 

 

 

 

プリンス「キス」

おまえの顔なんか
どうでもいいさ
からだがほしいだけ
夜が明けるまで
経験なんか
なくていいから
任せときなよ
みせてあげるから
金なんかいらないよ
僕のものになれよ
カッコ悪くていいから
僕を支配して
ほかの何かと交換しないで
ちょっとおくれよ、時間と
キスを
淫らなセリフはなしだよ、ベイビー
忘れさせたくないなら
ふざけすぎたらダメだよ、ママ
自分の脱がせかたなら知ってるさ
きみの妄想になりたいな
たぶんきみはぼくのもの
任せときなよ
たのしく過ごせるさ
金なんかいらないよ
僕のものになれよ
カッコ悪くていいから
僕を支配して
ほかの何かと交換しないで
ちょっとおくれよ、時間と
キスを
僕を支配するのは大人の女
子どもじゃないよ
歳の数で惹きつけて、ママ
靴のサイズじゃなくてね
たぶん回転だってできるよ
昼ドラなんか見なくても
どうすればいいかわかるさ
任せときなよ
僕の愛がごはん
金なんかいらないよ
僕のものになれよ
カッコ悪くていいから
僕を支配して
ほかの何かと交換しないで
ちょっとおくれよ、時間と
キスを

滝子山

女子6人で、笹子駅を9時半出発。曇りぞら。おやつに駅前の笹子餅を買う。里の家の脇を、山から流れてきた澄んだ水が、ばしゃばしゃ流れている。歩いているうちに晴れてくる。悲しそうなリスの絵の、山火事注意のポスターをいくつも見かける。お地蔵さんの目印のところから山道に入ってすぐ小川を渡る。道はゆるやかだけれどところどころ崩れてわかりづらい迂回があったり、落ち葉が深く積もったりしていて、地面をおそるおそる探して歩いたから、前半早々に疲れてしまう。

せせらぎの中に魚の背中が見える。コガラが何度か、目の前の枝にとまりにきた。
頂上の手前で、ひらけた歩きやすい場所にやっと出たと思っても、もう足があがらない。急でもなんでもないゆるゆる坂なのに、息があがる。
頂上手前の原っぱで13時頃お昼にする。鹿だろうか、原っぱには丸いぽろぽろうんこが落ちている。ハシリドコロが咲いている。
頂上は元気な3人が登り、あとの3人はのぼらずに手前で休憩。時間が気になって、すぐ下る。下りは急で、粘土質のすべりやすい土。1600m付近はまだ枯れ木が多い。ミツバツツジの濃い桃色が女の人の幽霊のように目に入る。檜平で休憩、桜の前で記念写真。17時すぎ下山、初狩駅に18時着。高尾駅でおりて、みんなで夕飯。

来福の下宿

 温又柔さんの小説『来福の家』を読んでいて、東京でさいしょの一年半だけ住んだ下宿のことを思いだした。大学の掲示板で見つけたその下宿は西荻窪の閑静な住宅街にあるふるい邸宅だった。邸宅といっても、古くなってあちこち痛んでいるその家は増改築を繰りかえしていて、いちばん古い部分は築百年が経過しているらしかった。しょっちゅう天井裏をネズミが走る足音が聞こえたし、階段の踊り場の窓から野良猫がすーっと入ってきて、また出ていったこともあった。

 私が借りていたのは、二階の奥、かつてその家の娘が住んでいたという十五畳もある広い部屋で、大きくてどっしりした木の机があり、ベッドと鏡台とクローゼットと小さい冷蔵庫もあり、つくりつけのマントルピースの装飾まであった。かつてここに暮らしたはずの都会のお嬢さんの生活に私の胸はときめき、あの机でなら何かすてきなものが書けそうな気もして、住むことを即決した。風呂とキッチンは共同、家賃は5万円台だった。

 部屋のたくさんある家だった。どの部屋も、女子大生が借りていた。五畳や四畳の部屋もあれば、私の借りた十五畳や十二畳の部屋もあった。狭い部屋にはかつては使用人が住んでいたのかもしれない、と私は思った。

 その春からそこに住み始めた私たちは、部屋の広さを問わずだんだん打ち解けてきて、夜、駅の近くのバイト先から帰ってくると玄関ロビーにたむろして、バイト先から持って帰ってきたパンや総菜や肉の残りものを交換しあうようになった。お金を出しあってホットプレートを買い、いちばん広い私の部屋でお好み焼きパーティーもした。とても合理的で現実的な、あれは女子たちのサバイバルだった。

 狭い部屋のひとつに、中国からの留学生の女の子が住んでいた。あるとき彼女が皆に焼き餃子をつくってくれた。「大崎」を中国語でどう発音するのか教えてくれた。彼女の名前も、彼女が広い中国のどこ出身だったかも思い出せないし、「大崎」の発音ももう思い出せない。でも、餃子がものすごく美味しかったことは、よく覚えている。

 あの家の間取りや隅々の経年劣化の手触りや見ため、それぞれの部屋に住んでいた女の子たちの顔が浮かんでくる。元気でたくましくやっているといいなと思う。あんなへんてこな家で生き延びていたのだから、たくましくやっているに違いないと思う。

 数ヶ月前、ある用事のためにその下宿の近くを通ることがあって、私はおそるおそる家のあった通りへ行ってみた。十年経って、家は跡形もなく、そこはきれいな軽鉄骨のアパートに変わっていた。

あとの祭り

 池袋で白神ももこさん演出の『春の祭典』を観た金曜日、ちょうど多和田葉子さんの新しい小説『献灯使』を読んでいた。

 しろっぽくて直線的で平面的な、つまりはとても人工的に見える舞台のうえで、極彩色でパワフルなくせにどこか抑揚のひらべったい盆踊りをダンサーの集団が踊る場面から始まる『春の祭典』。たくさんのことが舞台上で起こっているのに、私の心はなぜか平然としていた。まるで、試験管のなかに培養された祭りを観ているみたいな気分だった。

 ストラヴィンスキーの音楽が、ヒューマニズムをなぎ倒してゆくブルドーザーみたいに響いていた。舞台中央の頭上には、高速道路の誘導灯が斜めに吊り下げられている。こうして近くで見るとそれはとても巨大だ。でも私は驚かない。驚けない。こんなこと普通なんだ、当たり前のことなんだ、と頭のどこかから全身に信号が発信されている。こんなに巨大なものを何とも思わず高速で通りすぎる世界、めちゃくちゃな世界に私たちは普通に平然と生きているんだ。舞台のスペクタクル加減とは裏腹に、静かな気持ちで私は思った。

 『献灯使』は、鎖国した日本のどこかの仮設住宅で、ひよわな曾孫と暮らす義郎という老作家が主人公だ。この小説を読んでいると瞼の裏に浮かんでくる人工物のしろっぽさ、動物や果物がとても貴重でめったに見ることができない感じ。ひととひとが監視しあって、自由にものが言えない雰囲気。近未来の話のようで、実はこの国のどこかではもうとっくに起こっていそうなこと。ひとつの文化が終わって、しばらくしてまた再生するときに何かが少し歪む感じ。そのひとつひとつが、今回の『春の祭典』の様々なシーンと重なって見えた。

 たぶん、このふたつの芸術を併行して受け取っていることは偶然じゃない。どちらの作品も、何かとりかえしのつかないことが起こった後の世界を—“あとの祭り”を、冷めた目で描いている。もう絶対に戻れない世界はすぐに、誰も知らない世界になってゆく。あとの祭りの世界では、自然の定義が変わって、栄養の摂りかたが変わって、いけにえの捧げかたも変わって、それでも同じこととしてライフサイクルを繰り返していく私たちの、かなり強引な意志のようなものを感じる。それは希望なのか絶望なのか、まだよくわからない。いつかわかるときがくるのかもわからない。

 『春の祭典』の冒頭、まだ舞台が暗いうちに、なにかたくさんの小さい生命の呼吸のようなものが会場を埋め尽くし、それがやがて動物の鳴き声になり、ひとがことばを叫ぶ声になり、それから平準化されて一本の声音になる——、あの冒頭が懐かしい。あの冒頭にずっといられたらよかった、と私は老人のように思った。

 

2014/11/14
白神ももこ×毛利悠子×宮内康乃
春の祭典』@東京芸術劇場 

ベルリンで朗読した

 この夏、ベルリンで、初めて英語で朗読した。

 英語での朗読は、ずっとやってみたかったことだった。今回ベルリンに行くことが決まってからも、ぐずぐず迷っていたのだけど、この機会を逃したらもうまたいつできるかわからないのだからと思って、勇気を出して、2年前に知り合ったPequod Booksのアルヴァロに相談した。向こうで私は誰にも知られていないし、お客さんが集まるかもわからないんだけど、とメールした。アルヴァロは、自分の店で朗読会をひらくことを、すぐ快諾してくれた。

 とにかく英語の詩がなければ何も始まらないので、自分で翻訳をやることにした。目的としめきりがあると、意外とぐいぐい進むもので、出発直前に四篇を訳した。できるだけ単純なことばを選んで、訳していった。伝わるかどうか、謎だったけれど、それは日本語で書いていても同じことなので、気にしないことにした。

 当日は、12人くらいのお客さんが集まってくれた。日本語を話す人は、そのうち3人いた。日本語をまったく知らず、縦書きの文章を下から読むのかと思っていた人もいた。私は「外国語の朗読をきいて、音楽のように響きをたのしむという人もいますが、意味というのは、いつでも伝わりたがっているものだと思うので」と説明して、英語訳の詩を読んだあとに、日本語の原文を読んだ。そしたら、おもしろいことが起こった。

 私にとっては、日本語のほうがもちろん英語よりも身近な言語であるはずなのに、英語を読んでいるときのほうが、実感をこめて読むことができて、日本語を読んでいるときのほうが、なんだか地に足のつかない感じ、ただ行を追って発音しているだけのような感じがしたのだ。たぶん、なにかひとつ言葉が発されると、意味が伝わっている空気みたいなものが生まれて、言葉はその空気のなかで生きていくものなのかもしれない。ふしぎなことに、その場にいた日本人の友達(日本語が母語で、英語も解る人)も、後になって「英語のほうが、身体にはいってきた」と言っていた。

 ベルリンにも詩人がいるはずだと思うのだけど、その人たちに会えなかったことが心残りだ。でも、詩人と呼びたいような人には、たくさん出会った。

 知らない場所で、知らない人と、意味が伝わる空気を、また味わいたい。だから、いつでも出かけられる準備をしておこうと思う。