きょうの風景(8/18)

朝目を開けると、白い、粒の大きい雨がどさどさ降っていた。ベッドに伸びたまま、白いなー、粒でかいなー、と、しばらくベランダを眺めた。神鳴りがひっきりなしに鳴って、稲光の閃光がカメラのフラッシュのようにバチッと目にはいってきたので、思わず目を閉じた。雨の粒がしょろしょろ小さくなってきたことが雨音の変化でわかって、目をあけてまた眺めた。すると、茶色いにゅるんとしたものが、弱まってきた雨のなかを、ベランダの向こうの塀を渡ってこっちへ近づいてきた。尻尾がとても長い。けもの! けものがこんなにベランダの近くへやってきたことはない。私は眼鏡をかけていないと両眼とも0.1以下の視力である。いそいで眼鏡をかけて振り返ったときには、もうけものの姿はなかった。たぶん近所の猫だと思う。でもよく見えなかったから、夢がふくらんだ。いまでもまだ、夢の続きみたいに思える。
雨がやんだと思ったら、すぐに真夏の天気になった。蝉も鳴き出した。はじーとカフェ巡りして読書と仕事の一日にするはずだったけど、山手通りを歩いていたら後ろから自転車でスーッと私たちを追い越していく人がいて、歩道の舗装が完成した山手通りをそういうふうに行くのは半端なく気持ちよさそうだった。私たちは初台駅の地下駐輪場でやっているレンタサイクルをいつかやってみようと前から話していたので、よし、いまから借りにいこう!ということになった。地下駐輪場のおじさんが「雨降ってない?」というので、はじー「さっきやみました」、私「とても晴れています」と同時に、元気よく言う。おじさん「今日はもう豪雨で誰もこねぇかと思った」と言ってしっしっと笑う。出してもらった自転車をはじーが「かっこいい自転車ですね」というと、おじさん「ありがとうございます」と言う。
私もはじーも、しまなみ海道以来の自転車=レンタサイクルである。山手通りをシューッとくだっていって、途中で左に折れて参宮橋で小田急線の踏切を渡って、そのまま代々木公園のサイクリングロードを一周した。人けのない窪地のような場所で、木漏れ日のなかで、お兄さんがギターをつま弾いていた。カラスが何羽も、芋虫をつついたりして遊んでいる。はじーがすぐ何かを「見て見て!」と自転車をとめるので、私は急ブレーキをかけてすぐ前につんのめる。ヒマラヤスギの木に、見たことのない大きい実がついていた。真っ白い、口金から出したクリームのような、ぼってりした実だった。売店で私は抹茶ソフト、はじーは氷結。白いソフトクリームを食べている子どもたちがいる。子どもたちがいなくなると、雀が来る。子どもたちが戻ってくると、雀がいなくなる。
もう少し遠出がしたくなったので、富ヶ谷にある、フレッシュネスバーガーの第一号店に行ってみることにした。通りすぎてしまいそうな、小さいおうちみたいな、全然目立たないフレッシュネスバーガーなのに、入るとほとんど満席だった。平屋の天井に窓を三つ作ってあるので、光が上から入って、とても気持ちいい。何か仕事の話をしていた常連らしいおじさんが「あっ、雨だ! やべえやべえ」と言って飛びだした。見ると、さんさんの晴れのなかに、今朝と同じ大粒の白い雨が、ばさばさ降っていた。

きょうの風景(8/5)

炎天下の駅前で、くわえ煙草で日傘を直している猫背のお婆さん。
下北のDVDとゲームの中古品店で、ずっと電話に耳をくっつけている店員のお兄さん。
夕方の暑さのなかで赤いTシャツに鉢巻きを巻いて店の入り口に立っている居酒屋のお兄さん。
マンションの部屋の窓から網戸ごしに住宅街に響いている、五十代くらいの夫婦の喧嘩の怒号。
そのマンションの手前にある、やっと涼しくなってきて蚊の多い、猫の額ほどの緑道。
日の暮れたあとの公園の隅で煙草を吸う人。
井の頭通りがもうすぐ拡張されるので、閉店すると貼り紙してある、おいしそうな飲み屋の提灯。
その隣の、住んでいるひとの気配のない、一階にクリーニング店の入ったマンション。
お客さんがいないのでオリンピックの卓球を大きなテレビで見ている中華料理屋の店員。
邸宅の高い塀の上から道に突き出た街灯。
その街灯の下、大きな細い黒い犬を散歩させているおじさん。

きょうの風景(8/1)

日曜日にmujikoboで渡邊聖子さんの個展をみた。私は渡邊聖子さんの展示を、なんども見たことがある。でも、展示をみて、写真をみたのか部屋をみたのだったかわからない、とここまで痛烈に思うことができたのは、初めてだった気がする。写真をみにきたのだか赤子をあやしにきたのだか黄金町の川沿いのカウンターだけのカフェで初対面の人々と話しながらアイスチャイを飲むということをしにきたのだか、わからない、と思うことができた。「思うことができた」という言葉で思うのは、聖子さんが展示しようとしているのは、そのわからなさそのものだと思うからだ。
mujikoboという場所が、以前は特殊飲食店だったこと(それは、ギャラリーの狭い階段、細かくわかれた部屋のかたちからもよくわかる)をきちんと思いださせてくれたことが、わからなさの一端を、がっしりと担っていたと思う。窓の外で流れる緑色の川を眺め、畳の部屋の黒い壁に貼られた一枚の紙のうえの赤い文字を読んでいると、私は自分がだれなのか、とんとわからなくなってきた。

最近読んだ郷原佳以さんの「芸術作品といかに出会うか」という文章に、美術館の暴力のことがかかれていた。私はその文章を読んで〈ホワイトキューブ〉という言葉を知った。郷原さんの文章には、「中立的な「ハコ」としての美術館像、もしくは美術館への期待を表したもの」と説明されている。この文章には、美術館という制度が行使してきた暴力と、芸術作品がその暴力をどう無効にしようとしてきたかということがかいてある。
mujikoboは内装こそ真っ白と真っ黒に塗り分けられてモダンだけれど、運営者がどこまで意図してなのか、ただ偶然が重なってか、その場所の記憶をとどめて、"中立的な「ハコ」"とはちがった。それでも、暴力は確実に行使されているはずだ。そして、どんなホワイトキューブのばあいでも、暴力を行使することを単純に「わるい」ということはできない。展示物(内容)と場所(形式)の関係のこと、お互いがお互いに関わる力の強さ、想いの強さ、その関係の複雑さ、というようなことを、いま私は考えている。(つづく。)

きょうの風景(7/16)

馬車道での用事のあと、渋谷に戻ってくると、東横線の駅のホームまで、原発反対デモのシュプレヒコールが聞こえてきた。きょう代々木公園で原発反対運動の集会が行われたはずだと思って、私は駅から自宅まで、代々木公園を突っ切って歩いてみることにした。17時すぎで、公園内ステージでの挨拶やライブは全部終わっている時間だった。西武の脇を歩いている辺りで、「原発撤×」というプラカードを首から提げた、厳しい表情の小柄なおじさんとすれ違った。もっと大変な数の集会参加者が、そういう感じで公園通りを駅に向かって降りてくるかと思ったけど、公園通りはほとんど普段の休日の夕方と変わらなかった。やたらと黄色い袋(ドンキのやロフトの)を持っている人が多い気もしたけど、気のせいかもしれない。洋服の大きなショップの前に黒いTシャツの店員の男が出てきて、「皆さん、暑いです! Tシャツが必要になります!いらっしゃいませーいらっしゃいませー」とメガホンで客引きの声をあげていた。
公園にはいつもの祭り屋台が少し多めに出ていた。主催イベント関連と思われる出店の人々は、自分たちをねぎらう拍手をしたり、けりをつけ難そうに世間話をしたりしているところだった。ステージ上はほとんど片付いて、黄色い布に大きくNO NUKESとかかれた垂れ幕だけが、ぐずぐずと残っている。警官がふたり、ステージの前を歩いて行く。ザアッという風がふいて、警官のひとりの帽子が飛ばされたのを、慌てて拾いにいっている。舞っている砂埃がみえる。

公園を横切って原宿から富ヶ谷へ抜ける車道に出ると、いままさにデモ隊が出発するところだった。23区や神奈川の労組連合とか、年金関連の団体とか、「医療」とか「生活」とかかれたノボリを持っている人々だった。デモ隊が車道に出るのを待って、私はかれらの隣を、歩道を歩いていった。デモは富ヶ谷の交番前交差点を右折して、これから新宿まで行くらしい。デモの人々はみんな私のと同じような色の薄い日よけ帽をかぶっている。日傘を差している人もいる。ビニール傘に反対の文字をかいてかかげている人もいる。この隊列に参加しているのは、五〇代とか六〇代の男女がほとんどのように見える。たまに、小学高学年くらいの男子や、二〇代後半らしいカップルが混ざっている。神奈川の隊列の一番前でメガホンのマイクを持ち音頭を取っている人は、髪の毛が全部おさまる黒い帽子をかぶりぴったりしたデニムをはいた、白い肌のきれいな女の人だ。「原発の"虜"か?」という印象的なプラカードを提げている人を、ドイツ人ふうのガッチリした体格の女性が、歩道側から写真に撮っている。児童公園の柵に座ってデモを眺めている人がいる。私も少しその並びに座って眺めた。向こうから子どもを後ろに乗せて走ってきた自転車の女の人が、デモの声に合わせて「さいかどー、はんたい、」とうたうように言う声が私の耳に届いた。
帰ってきて、シャワーを浴びて、ベランダのゴーヤを眺めた。

点字とボンド(6/14)

仕事のあと、パソコンをひらいたまま、仕事をしていたその同じ机でひとりでビールを飲むという、贅沢で堕落的なことをしていると、机の上の棚に前から置いてある木工用ボンドのケースに、点字が打ってあるのに気がついた。グーグルさんの画像検索で点字の表を引っぱりだしてきて読むと、表に「ボンド」裏に「モッコーヨー」とかいてあった。すこし前、「ギルガメシュ叙事詩」を読んだとき、楔形文字の図を世界史便覧以来で見たけど、改めて点字を見ると、楔形文字よりも洗練されていて、(私には古風にウツクシイものを愛でてしまうところがあるので、)点字、この実用美、ウツクシイナー、とビールを飲みながら、木工用ボンドのケースをまじまじ眺めた。ハッと、机の上の文房具のかずかずーーカッター、カッターマット、スティックのり(Prittと無印)、フェルトペン、MONO消しゴム、ハサミ(無印)ーーをひっぱりだしてみたが、コニシ株式会社のボンドだけが、点字つきなのだった。セメダインの木工用ボンドにすら、点字は打っていなかった。コニシ株式会社のウェブサイトをあさってみると、このボンドはいつのまにかグッドデザイン賞をもらっていた。子供用のQ&Aに、「ボンド 木工用や木工用速乾(そっかん)の点字は、目の不自由な方が、これは接着剤だとわかるように入れました。」とだけかかれているのだった。きっと何か思想があるはずだと思う。でもそういうことをことさらにかかないところが、いかにもシャイで、昔ながらの木工用ボンドの会社らしくて、いいではないか。

きょうの風景(5/27)

自宅から代々木上原駅まで行く路の途中に細い私道ふうの急な下り坂があって、急な下り坂の急な下りぎわ、T字路を左に曲がる角に、家一軒ぶんの空き地がある。そこが空き地になってから、春も夏も秋も、茎が強くて葉もかたそうな、切ったら白い血がじゅっと出そうな野の草が大小問わずごびごび生えて、埋め尽くして、一度刈られたくらいでは屁でもないのだった。それで私はこの空き地が気にいっていた。きょう、坂を下りていってみると、私の左半身が受けとる感じがばかにひっそりして、目をあげてみたら、そこは一面の、紺碧なのだった。紺碧の、あの、青春映画のなかで夕陽に照り映える海のような、光をきらきら弾く、塗りたての、アスファルトなのだった。その海を、しいてひとつあげるとするなら、『緑の光線』の海なのだった。私は、あんなに図太く繁茂している緑が一掃されるときにはさぞ寂しい気がするだろうと決めてかかっていたので、アスファルトが紺碧の青春映画の海でもあるなんて、やるじゃんか、と思ったのだった。

神様の庭は円い(5/19)

「タイム」で一緒に舞台に立った毛利悠子さんの個展を見に、東京都現代美術館へ行った。毛利さんの作品が入っているブルームバーグ・パヴィリオンというのは、美術館の前庭に設置された、離れのような建てもので、白いパキパキした、屋根だか壁だか見分けのつかない、折り紙を途中で放置したような凹凸のある、青空によく似合う板で覆われている。似合うにもいろんな似合いかたがあると思うけど、その似合いかたは、青空に向かってエッヘン!と自己主張しているような感じがする。
でも建てもののなかにはいると、毛利さんの作品たちの空間は、とても静かで、自己主張とは遠い、ある生態系に支配された、神様のお庭のような空間だった。「タイム」のときも、毛利さんが準備した空間のことをわたしはずっと「祭壇」と呼んでいて、新しい儀式のためにモノたちがたてる音を聞いていると、知らない宗教の教会にいる気がした。
こんどの展示は、「サークル」「サーキッツ」「サーカス」と続く三部作の三部作目にあたるのだそうで、もらったハンドアウトに、これらの3つの言葉が同じ語源をもっていることが書かれていた。以前アメリカの詩の研究者・金関寿夫さんの本を読んだとき、アメリカインディアンの言葉で「インディアンがすることは何でも丸い。『四角』には、どんな力も宿っていない。」と書いてあったのを、私は後になって思いだした。
扇風機がまわっている。昔のほこりのこびりついた、半透明の青い羽根の、背の低い、おばあちゃんちにありそうな扇風機だ。部屋のブラインドが、パシャンと音を立てて外からの光を遮断する。しばらくすると、またカシャンと音を立てて角度の変わったブラインドの隙間から光が入ってくる。スプーンが鐘を鳴らす。アイスクリームを食べたいくらいのサイズのスプーンだ。時計盤の数字のように円状に置かれた幾つもの方位磁石、その針がほうぼうで揺れている。その時計盤の針のように、木製の定規が、秒針と分針の間くらいの速さで、ゆっくり回っている。部屋の中央に、白いカーボン紙の幕が、でろりと垂れ下がっている。ひっくり返ったレトロな玩具の真上に吊されたシェードランプが時折りぼうっと明るくなると、玩具の蛾がジジジジッと震えだす。白い水玉模様の赤い傘が回転している。傘に張られた布はところどころ焼けて穴が空いていて、わたしに石内都さんの「ひろしま」の服たちを思いださせた。磁力と音、回転と静止、光と震え、はじめは何がどこで繋がっているか探そうとしたけれど、それを探しても意味がないように思えてきた。
磁石の力、光の力、風の力。そういう力を感じたり、それぞれの生活の果てにこの部屋に集まったモノたちをみていると、見えないものと見えるものがあるんじゃない、という気がしてきた。磁力や光の力が見えないもので、傘やスプーンが見えるもの、とは分けることができない。磁力も光の力も傘もスプーンも、みんなこの部屋で、見えるようになったのだ。
見ているうちに、部屋はどんどん大きく感じられてきて、いつまでもこの庭で遊んでいたいような気持ちになった。


◎毛利悠子 個展「サーカス」
5月19日(土)〜6月17日(日) 無料
東京都現代美術館ブルームバーグ・パヴィリオン