わたしの被災を

一月一日の午後に関東で震度4の地震があって、静岡の友達宅でたこやきを食べていたわたしは、そのとき初めて、自分自身が東日本大震災の被災者だったことに気がついたのだった。思いだした、とか、向き合った、というより、気がついた、発見した、そういう言葉のほうがぴったりしている。こたつに入ったわたしの側の大きなテレビの画面のなかで、渋谷公園通りの坂の頂上にある交差点を映すNHKのビデオカメラがぐらぐら揺れていて、わたしはその交差点の四方に伸びているどの道を選んでも、その道がどう延びてどちら方面に続いているか淀みなく思いえがくことが出来る、それほどなじみ深い場所が揺れていても、わたしはこんなに何にも感じない、それは本当にびっくりするようなことだった。それは、揺れていないわたしの足下が、わたしにふるった暴力だった。
わたしはわたしの被災した分しか被災していない、とわたしは思い知った、それは去年のあいだじゅうずっと、こうして思考する手前のところでぐじぐじといじっていたことだ。言い換えれば、わたしはわたしの分をきっちり、耳を揃えて、きょうこの瞬間も被災しているのだ。震災以前も以後も、ひとりひとりが自分の分をただ被災している、受苦している、そのことはなんにも変わっていない。全体主義的な大声にけりをつけて、わたしはわたしの被災と話し合うだけだ。そのことは確かに震災とそれに続く出来事が教えてくれた、交通事故で弟をなくしたり、戦争で夫を失ったり、飼い猫が家を出て戻らなかったりしたことのないわたしのために(わたしの住んでいる家の近所には一時期、「この猫を探しています」の貼り紙がほとんどすべての電柱に貼られていた、それも何ヶ月も、ほとんど一年になるかというくらい、しぶとく、しつこく。数は減ったけれどいまでもまだ、雨で皺になり、破けながら、電柱に貼りついているのもある。あの飼い主は、どうすれば、どんな出来事が訪れれば、飼い主としての被災を受けいれることができるのだろう)。でもわたしはずっと前から知っていたと思う、わたしの被災をかわいがることができるのは、わたししかいないということは。そして、「わたしの被災をかわいがることができるのは、わたししかいない」というまさにそのことを共有するためにーつまり、被災の内容を共有するためにではなくー誰かと言葉を交わしたい、そのための技術をえたいと、ずっと思ってきたはずだと思う。
たこやき会はとっても楽しかった。ひさびさにじっくり友達の恋バナ(←照れる)もきいた。

「もう希望することを止めた陽気さ」、最も深い絶望のゆえに、それは最高の喜びにあふれていた。この女たちの目は今も見ているのだ、十六の時にはもう存在していなかったパレスチナを。とはいえこの女たちにも、結局のところ一つの大地(ソル)はあった。その下にでも上にでもなく、そこではちょっと動いても間違いになるような不安な空間のなかに女たちはいた。この上なく優雅な、八十過ぎのこの悲劇女優たちの、裸足の足の下の地面は堅固だっただろうか。
「シャティーラの四時間」p31(インスクリプト)