来福の下宿

 温又柔さんの小説『来福の家』を読んでいて、東京でさいしょの一年半だけ住んだ下宿のことを思いだした。大学の掲示板で見つけたその下宿は西荻窪の閑静な住宅街にあるふるい邸宅だった。邸宅といっても、古くなってあちこち痛んでいるその家は増改築を繰りかえしていて、いちばん古い部分は築百年が経過しているらしかった。しょっちゅう天井裏をネズミが走る足音が聞こえたし、階段の踊り場の窓から野良猫がすーっと入ってきて、また出ていったこともあった。

 私が借りていたのは、二階の奥、かつてその家の娘が住んでいたという十五畳もある広い部屋で、大きくてどっしりした木の机があり、ベッドと鏡台とクローゼットと小さい冷蔵庫もあり、つくりつけのマントルピースの装飾まであった。かつてここに暮らしたはずの都会のお嬢さんの生活に私の胸はときめき、あの机でなら何かすてきなものが書けそうな気もして、住むことを即決した。風呂とキッチンは共同、家賃は5万円台だった。

 部屋のたくさんある家だった。どの部屋も、女子大生が借りていた。五畳や四畳の部屋もあれば、私の借りた十五畳や十二畳の部屋もあった。狭い部屋にはかつては使用人が住んでいたのかもしれない、と私は思った。

 その春からそこに住み始めた私たちは、部屋の広さを問わずだんだん打ち解けてきて、夜、駅の近くのバイト先から帰ってくると玄関ロビーにたむろして、バイト先から持って帰ってきたパンや総菜や肉の残りものを交換しあうようになった。お金を出しあってホットプレートを買い、いちばん広い私の部屋でお好み焼きパーティーもした。とても合理的で現実的な、あれは女子たちのサバイバルだった。

 狭い部屋のひとつに、中国からの留学生の女の子が住んでいた。あるとき彼女が皆に焼き餃子をつくってくれた。「大崎」を中国語でどう発音するのか教えてくれた。彼女の名前も、彼女が広い中国のどこ出身だったかも思い出せないし、「大崎」の発音ももう思い出せない。でも、餃子がものすごく美味しかったことは、よく覚えている。

 あの家の間取りや隅々の経年劣化の手触りや見ため、それぞれの部屋に住んでいた女の子たちの顔が浮かんでくる。元気でたくましくやっているといいなと思う。あんなへんてこな家で生き延びていたのだから、たくましくやっているに違いないと思う。

 数ヶ月前、ある用事のためにその下宿の近くを通ることがあって、私はおそるおそる家のあった通りへ行ってみた。十年経って、家は跡形もなく、そこはきれいな軽鉄骨のアパートに変わっていた。