三頭山の記録(2)

二時過ぎ、レストラン「とちの実」を出て、「生活の森コース」を歩いてみることにした。木材を切る機械の音がしている森林館の別館の脇を抜けて、ふかふかに落ち葉の散り敷いている細い山道を登っていった。最初の分かれ道で右に進むと森林館が右手に見えてきて、道を間違えたと分かったので引き返して、次の分かれ道で右をとると今度は正解だった。歩き始めるとすぐ、道の左側にわさびの生えている沢が沿いだした。沢の流れにさからって登っていくと正面に小さい橋があって、橋の下を沢がくぐって、右側の小さい滝につながった。滝の脇には「黒滝」という標がたっていた。先へ進んでいくと思っていたのより細くて急なじぐざぐ道が続いた。白い霧がわいてきて、山の斜面を横へ流れていくのが見えた。ときおりツイツイと速く鳴く鳥の声だけがきこえて、そのほかには音がなかった。ただ、耳の底をSの子音の滴だけをあつめてまんべんなく漂わせたような、音にならない音が這っている。霧は、十五歩ほど後ろを歩いているはじーの人影がうっすらして生気がなく、異界の人のように見えるくらいの白さの濃さを保ちながら、満ちることなく、消えることなく、流れている。
道にはクヌギの葉や朴の葉やカエデの葉がぶあつく重なって腐りかけていて、わたしはなんとかまだきれいな色の葉っぱを見つけて拾おうとして前屈みになって歩いていった。はじーは腐りかけた葉っぱでも平気で拾って、むしろその腐ったところの模様がおもしろいみたいに「ナイスわくらば。」なんて言っている。
地図で「シラカバの道」となっている道を右にとってさらに歩いて行くと、白い靄のなかにすっくと佇った姿のいいカツラの木に遇った。あとで写真をみると、このときにはじーが「蟲師ふう」にこのカツラの木とわたしの後ろ姿を撮ったのが何枚もあった。
宿に向かうバスの時間を考えて、今日のところは早めに山を下りることにした。来た道を戻って(ふかふかの落ち葉を靴で少し掘ると、小さいミミズみたいな何かの幼虫がうっじゃうっじゃ出てきた)、さっき脇を通ってきた別館のなかの通路を抜けようとすると、不揃いな形の木ぎれがたくさん入った箱があって、「ご自由にお持ちください」となっている。記念にと思って、ふたつとる。階段の踊り場にこの施設で作ることのできる木の椅子や棚が展示してあって、階段を降りると一階で何人かの人が何かの作業をしている。係のおじさんが、ここでは木のキーホルダーが無料でつくれることを教えてくれたので、わたしたちはバスをひとつ遅いのにして、キーホルダーを作ることにした。まず一枚ずつ10平方センチメートルくらいの木板とキーホルダーの金具をもらって、それから広い台の上に並べてある大量の型のなかから、自分の作りたい形を探す。はじーは耳の大きいウサギにした。わたしは目を皿にしてアナグマを探して、まんまと理想通りのリアルなアナグマの型を見つけた。その型を木板の上に置いて鉛筆で縁取りして、縁取り線に沿って木板を電動の糸鋸で切っていく。集中して糸鋸に向かった。アナグマの脚の部分がなかなか難しかったけれど失敗せずに切れた。はじーは変に力が入るのか、糸鋸の歯を折ってしまい、別の糸鋸に移動すると、また折ってしまった。係のひとには黙っていた。紙やすりをかけて、キーホルダーのネジをアナグマのおしりにぐりぐり差し込んで、完成。大満足して、木材工芸センター(という名前だったその建物)を後にした。
バスを待つあいだ、売店で木の板で出来たはがき(切手を貼るところにふくろうの絵が烙印されている)と、わさび味の豆のお菓子、その名もついついわさび豆を買った。はじーは缶ビールを飲んだ。
白い霧が、都民の森の入口正面に見える木々の間にも降りてきていた。バスに乗ってバスが発車してから顔を上げると、窓にピンク色のフィルターをかけたかと思うくらい、空も山も木もぜんぶピンク色に染まっていて、いくつかカーブを曲がると、視界がひらけて山が幾連も重なって遠くまで見え、その中央に秋川の流れる谷があり、谷の片側に車がたまに走ってくるくねくね道路が見下ろせる景色が広がっていた。

数馬バス停まで戻るとすっかり日暮れである。三頭山荘までぽくぽく歩いた。川の水が岩や木に跳ねあたって流れてゆくしゃばしゃばいう音がずっとしている。道の途中にお社があって灯りがともっている。「三頭山荘 100m先左折」とかいた看板を見て、橋を渡って100メートル歩いてみたのに、そこを左折すると藪のなかに入ってしまう。どうしてこの数字は嘘なのか、とはじーと喋りながらもう300メートルくらい行くと、三頭山荘が現れた。
明かりのついた古民家の玄関には、予約の名前を書く黒い板(下のほうに「様」だけいくつも書いてある板)があるのに誰の名前も書いていないので、不思議に思いながらはいってみると、広い板間があって誰もいない。「こんにちはー」と呼んでみると男の人が出てきて、「チェックインは本館のほうでお願いします」と教えてくれた。本館は古民家ではなくえんじ色の建物。こっちにも同じ黒板があって、ちゃんと名前が数組分書いてある。部屋に通してくれた番頭さんが、「もう40分頃にはお夕食にお呼びします」と言う。はじーは窓を開けてベランダに出た(はじーは旅館に泊まるといつも最初に部屋の窓をあける、そしてベランダに出られるときは必ず出る)。わたしは旅館の部屋に必ず置いてある土地のお菓子を食べるのがたいへん好きなので、三頭山荘のは「山の呼び声」というお菓子で、それを食べて日本茶を煎れた。お茶を飲みながら、部屋に置いてあった「山荘日記」を読んだ。「主人・子どもに黙って好きな人とふたりで来ました」という書きこみがふたつある。子ども夫婦と孫と来たおばあさんの手で「兜屋根の別館で食べたご飯もとてもおいしかった、鰻のお刺身を初めて食べた」と書いてある。
(続く)