マルタとマリア

茨木のり子さんは、「小腹」という言葉がきらいなんだそうだ。わたしは「非常に」という言葉がきらいだ。会社で一日に何十通、何百通とうけとるメール、ちゃんとその数を調べたことないけど、あまりにもみんなして「非常に」という言葉を使うので、非常慣れして、ちっとも常ならずでなくなってしまった。
きょうは数週間ぶりに遅刻せずに出社したとおもったら、そんなことや、昨日表参道で集まった女子五人の宴でとびだしたあれやこれやの言葉が頭上をひらひら舞い、それでもきょうまでに終わらせなければならない仕事をひとつひとつ、一所懸命働いて、はと我にかえると夜十時をまわっていたのだった。仕事の締切の時間のひとつひとつと、からだの時間とは、驚くほどとても、分離している。
9月の終わりにあったannaの結婚式で、久しぶりに聖書の言葉を耳にして、(それは受胎告知の箇所で、わたしには、その箇所は結婚式にあまりいい引用とは思えなかったので、そのことだけが蜘蛛の巣のようにもやっと引っかかっていたのだけど、)さっき聖書をひっぱりだしてきてみたら、好きな箇所がいろいろ思い出されて、嬉しくなった。わたしがとくに好きなのは、「子供を祝福する」(マルコ10 13-16)と「マルタとマリア」(ルカ10 38-42)というところだ。「子供を祝福する」はマタイやルカにも載っているけど、マルコでは最後にイエスが「子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福された。」で終わっているところがいい。(ほかの福音書では、抱き上げる、とまで書かれているものはない。)「マルタとマリア」は、こんなのだ。

一行が歩いていくうち、イエスはある村にお入りになった。すると、マルタという女が、イエスを家に迎え入れた。彼女にはマリアという姉妹がいた。マリアは主の足もとに座って、その話に聴き入っていた。マルタは、いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていたが、そばに近寄って言った。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」主はお答えになった。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただひとつだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」