祝辞

神里雄大バルパライソの長い坂をくだる話」岸田戯曲賞受賞によせて

Hola, buenas noches. Estoy muy feliz de celebrar el premio de Yudai con todos ustedes. Felicidades!

こんばんは、大崎清夏と申します。
神里くん、きょうはほんとうにおめでとうございます。

私たちが出会ったのは、早稲田大学の学生だったときです。せっかく早稲田に入ったのに演劇がよくわからなかった私に、おもしろい演劇、新しい演劇を初めて見せてくれたのは、岡崎藝術座でした。

岡崎藝術座の演劇は、人間がことばを喋るんじゃなくて、ことばが肉体をもって人間の顔をしてうろうろしてるように見えるところが、面白いなーといつも思います。どんな人間もその人の生きてきた言葉を血や肉にしているわけですが、神里くんはその血や肉を、頭や手足や胴体と同じくらいフィジカルにとらえているように思います。

神里くんの戯曲が、戯曲かどうかという議論がいつかどこかであったそうですが、私にとってはその議論はどうでもよくて、それについて話すなら、神里くんの戯曲は、たいていの場合、詩だと思うのですが、俳優を通してしか感受できないかたちで存在する詩があるとしたら、それは戯曲と呼ばれるんじゃないかと思います。

私たちは偶然、別のルートを辿ってラテンアメリカの文化に触れることになりました。私はつい先日、キューバの文学祭で、日系アルゼンチン人の女の子と出会いました。彼女の親友のお兄さんは「バルパライソの長い坂をくだる話」の出演者でした。この国の多くの人は、自分のことを移民ではないと思っているかもしれないけど、移民というのは、異なる文化のなかに移って、住む人のことです。私たち自身、もしくは私たちの両親や祖父母が、一度もそんな経験をしていないなどということがあるでしょうか。そう考えれば、私たちには、誰でも、移民の血が流れています。受賞作は、とても普遍的なテーマに挑戦していると思います。

もう10年以上前に上演された、私の大好きな岡崎藝術座の初期の作品、2007年の作品ですが、私はこの作品がいまでもいちばん好きで、それを見た日のことを書いた文章があるので、それも10年前の文章なんですけれども、きょうはそれを読んで、祝辞にかえたいと思います。

 二〇〇七年の暮れのこと。わたしたちは高田馬場のふるいバーでお酒を飲んでいた。岡崎藝術座の一人芝居「雪いよいよ降り重ねる折からなれば也」を観たあとのことだった。ついさっきまで、そのカウンターの向こうでひとりの若い女優さんが、バーのママの四〇年分の「いま」を演じていた、その同じカウンターの向こうで、そのバーの実のママであるりつこさんが、手に持った大きな氷を割り続け、ロックのウィスキーをつくり続けていた。その時、黒いコートのおじさんが入ってきた。狭いカウンターのまんなかの席に黒いコートのおじさんは座った。りつこさんが、あら、二年ぶりじゃない?と言った。言った傍から、こないだ誰それが電話してきたのよ、と喋りだしたりつこさんとそのおじさんは、とても二年ぶりとは思えなかった。りつこさんの四〇年全部がいまなのだと、その会話はあかしていた。
 カウンターの向こうに、いまはりつこさんというひとがいる。でもあと四〇年経ったら、りつこさんを血や肉にしているバーそのものが、陰もかたちもなくなっているかもしれない。四〇年もバーを続けるという、嘘みたいなことをやっている、りつこさんという現象。四〇分かそこら、嘘をつき続ける、演劇という現象。どちらもあまり変わらない、とわたしは思った。
(詩集『地面』あとがきより)

神里くん、ほんとうにおめでとうございました。

ハバナ日記(4)

Alamarからバスで、ケティのママの住むLautonへ。ディウスメルも一緒。ママとママの彼氏に挨拶する。アパートの二階にあるママの部屋のベランダからは、ハバナの中心街とその向こうの海が見える。隣の家からレゲトンが聞こえてくる。朝ごはんをいただいて、みんながのんびりした日曜の気分を味わうなか、ひとりそそくさと絵本の原稿を仕上げさせてもらう。壁掛けテレビでは録画の「GOT TALENT」のスペイン語版を流していて、ママがときどき笑っている。昼ごはんもいただき、今度はケティがディウスメルの助けを借りながらブックフェアのプレゼン資料をつくる間、リビングのソファベッドですこし昼寝。ここでもいい風が吹いている。夕方、近くの公園でネット回線を拾って、業務メールをいくつかやっつける。ケティが自分の携帯のメールを見て嬉しそうに「サヤカ、今夜はちゃんとパーティーがあるよ!」と言う。

 中心街へ向かうバスを、ディウスメルは途中で下りて家族のいる家に帰り、ケティは人に道を何度も尋ねながら私を会場まで連れていった。見ず知らずの怪しいお兄さんが声をかけてきたと思ったら、若手作家ミーティングの参加者だよ!と言うのでホッとする。道を渡って住宅ふうのビルに入り、屋上まで階段であがると、見覚えのある面々がギターを囲んで歌ったり踊ったりしていた。テーブルにはラムの大きなボトルがドンっと置いてあってみんなストレートでぺろぺろ飲んでいる。ビールなんかないのだ、ラムなのだ。クールだ。ちびちびそれを舐めていると、キューバ人の黒人の男の子、ヤンシーが話しかけてくれる。ぜんぶスペイン語なのに理解できる。ゆーーーっくり話してくれるのだ。アダはいつのまにか見つけた男と仲よさそうにいちゃいちゃしている。その男オスマイルは確かに好青年で、それでキューバはどう?と私に、ざっくりした質問。ソーミュージカルでソーエモーショナルだよ、オールディフェレントフロムジャパンだよ、と私もざっくり答える。メキシコからの素敵な人びと、おっとりしてかわいらしいアドリアナ、ぽっちゃりゲイの愉快なチェぺ、名前の由来は緑の王冠だと教えてくれたほっそりのステファニーと知りあう。メキシコのみんなのノリは、ほっぺで挨拶するカリブの超近距離コミュニケーションの世界に比べてとても控えめで、ふしぎと日本人の友だちノリと共通するものがあって、すぐに仲良くなってしまう。アメリカを挟んで、私たちは文化をシェアしてる。みんなでひとしきりトランプに悪態をついて悲しくなってから、何やってんの私たち、政治なんてやめよやめよ、詩が必要なんだったわーと我に返る。チリのスキンヘッドの女性作家パメラが、私の朗読がすごくよかったと言ってくれる。彼女は経血を聖なる血と表現するような人で、本の題は「月の狂気」で、情熱的で深くて強いものを愛している。私は深さと柔らかさの共存は無理だと思っていたけどあなたはそれをやっていた、深くて柔らかくてセクシーだった、私たちはすごく違うけど、同じことを表現していると言ってくれた。すごく嬉しかった。いくらでも話していられて、パーティーはあっという間におひらき。みんなでマレコンに移動してもう少し喋る。エミリオに会うと、パウラは風邪をひいて寝てると言う。歩きながら好きな監督を3人あげるゲームをやった。エミリオはタルコフスキーとトリアーを挙げて、私は北野武アンゲロプロス。もうひとりがどうしても思いつかなかった。後になって、あっエドワードヤンだ!と思った。

私の面倒を見なければならないケティがお疲れ気味なので、名残惜しい気持ちでマレコンを後にした。遅すぎてAlamarへ帰るのは危険だというので、Nに来てもらって、ハバナ大学の近くの空き部屋を貸してもらう。ぶよぶよのスプリングのダブルベッドでケティと眠った。

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ハバナ日記(3)

 2月3日。気持ちのいい朝。民泊にはシャワーがないのでケティの叔母さんの家まで浴びに行って、Nとテラスで涼む。昨日あのミュージシャンが言ってたライブに招待の話、あれほんとかな、うん、あれはマジのやつじゃない?とNと確認しあう。そういえば、あれからアダはどうしたのだろう、Alamarへは帰ってこなかった。
 今日もバスに乗って〈詩の家〉へ。Nとどこで別れたのだったか思いだせない。ケティがミーティングでプレゼンしている間、私はがらんとした食堂で絵本の仕事の原稿にとりかかる。開け放した中庭への扉から、いい風が入ってくる。
 パウラに会えたので、持ってきていた「はっぱのいえさがし」を差し上げる。さっきの食堂でみんなに昼ごはんの配給。胃にもたれる系の、お米と肉のお弁当。食べられるだけ食べる。午後、ケティが親友のディウスメルを紹介してくれた。この人はとても優しく思慮深い人なのだけれど、その優しさと思慮深さが行きすぎて、こちらにすこし圧を感じさせる。彼に悪気はないので、私もがんばった(が、数日後に限界をみることになった)。ついに私のネット禁断症状が現れてきて、3人で旧市街をうろうろして道ばたのお兄ちゃんから1時間分のwifiカードを買って、マレコンで繋いだ。まる2日ぶりのインターネット。たった2日間接続していなかっただけで、なんだかとても頭がすっきり整理されている気がした。
 マレコンの防波堤にあぐらをかいて座ると、脳内に「世界ふれあい街歩き」の音楽が流れた。夕方からは、マレコン通りに面したイスパノアメリカ会館で朗読会。壇上で合奏団が、うっとりするような曲や感傷的な曲を奏でて、その合間に詩人が壇上に呼ばれて朗読する。音楽はどの曲もどの曲も、こういう機会に演奏される音楽としての最高峰の音楽だった。昨日はいなかったオランダやトルコからの詩人も来ている。あらっ、ちょっとあんた、どーしてたの?なんつって、壇上で1日ぶりのアダに再会。ほんとボヘミアンな性格なのだ。昨日よりは元気そうな顔で、しれっと自分の出番をこなしている。私はケティにチェックしてもらった片言のスペイン語であいさつして、「テロリストたち」を読んだ。読みおえると大きな拍手をもらった。誰かがブラボー!と言ってくれたのが聞こえた。終わったあとは会場のテラスでスナックをつまみながら雑談。メキシコから来たミゲルが「Por Favor, Lea La Poesía」と書いた赤いステッカーを大量にくれる。
 ディウスメルとケティと、マレコンから昨日のパスタ屋まで移動して夕飯。ケティ、パスタを注文したまま、ちょっとと言って出かけたまま、私とディウスメルが食べ終わっても帰ってこない。パスタ屋の閉店時間になって、ディウスメルが探しにいくのと入れ違いで戻ってくる。何をしていたのかよくわからない。またマレコンに戻ってみるとまだみんないて、アダもいて、これからみんなでどこかでパーティーをするというので集団についていったけど、どこまで歩いてもどこが会場なのか誰もよくわかっていないみたいだった。疲れてしまったのでもう帰ることにして、中央広場の前で乗り合いタクシーを拾って今夜はディウスメルと3人でAlamarへ。彼の親戚の家が、ケティの叔母さんの家のすぐ裏手にあるのだった。

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ハバナ日記(2)

 2月2日。涼しい朝。Alamarの民泊のご夫婦は、ちんみたいな犬を3匹飼っている。家の外にも黒い犬がいて、あれもお父さんの犬?と聞くと、あれは違う、知らない犬だと言う。犬が多い。団地の壁の色はカラフルなパステルカラー。団地のまわりはゴミだらけ。どこかから音楽がきこえる。シャワーを浴びてバスに乗って、ハバナの旧市街へ。Alamarから旧市街まで、車でゆうに30分くらいかかる。

 旧市街のカテドラル広場に面した〈詩の家〉に向かう途中、メキシコから来た高校生の団体と出会う。彼らも若手作家ミーティングの参加者なのだ。若いというより、子どもたちに見える。引率の先生とケティが話しはじめ、アダは「おなか空いたよ〜、だから団体行動は嫌いだよ〜」と言ってひいている。私も彼らとついつい自己紹介しあいっこを始めてしまい、気がつくとアダとケティは広場の反対側にある猫の看板のカフェに入るところだった。トーストとコーヒーで朝ごはん。猫が寄ってきて、じーと見る。

 〈詩の家〉ではミーティングのプログラムがどんどん始まって、思ったよりパンクチュアルだ。休憩時間に、アルゼンチンから来た雑誌編集者で作家のエミリオと、その彼女で日系の女の子、パウラに出会う。日本語であいさつ。アダの風邪が悪くなる一方なので、ケティはお医者さんの友達を呼ぶと言って、アダを別の人に任せて、私をハバナ観光へ連れ出してくれた。旧市街のそこらじゅうに音楽が溢れていて、あっちを見てもこっちを見ても踊っている人や歌っている人や楽器を鳴らしている人がいる。音楽音痴のニッポン人の私でさえ、リズムにあわせて揺れだしたくなる。がまんしながら歩く。有名なヘミングウェイのバーを覗くだけ覗いて、写真を撮る。どんどん歩いていって、銀行でおかねをCUCに換金(昨日の空港ではすっかり忘れてた)。ケティの行きつけのパスタ屋さんで、遅めのランチ、トマトパスタ。そこからまた少し歩いて、ジャングルみたいに迫力のある緑に彩られた庭園に入っていくとそこは出版社の敷地で、ケティの女上司が、何人かの著者?や出版関係者?と午後のお喋り?をしていて、ケティはその女上司から、現金でお給料らしきものを受け取っている。同じ庭園に、エッセイストのおじさんや、彼女連れの編集者のラファエル・グリーリョがいて(なんて敏腕編集者っぽい名前!)、ケティは彼らにいちいち私のことを紹介してくれた。ラファエルはすでに私の詩を読んでくれていた。さくさくした、実務処理能力に長けた、有能そうな、私の昔のボスみたいな感じの人。ラファエルとその彼女と、ケティと4人で、ハイネケンの缶ビールで乾杯。

 そのあと、ホテル・カプリの斜め向かいにあるエキスポ会場の入口で、ケティはまた別の友達と待ちあわせた(カプリはアレナスの「エバ、怒って」に出てくる)。その友達はNといって、ほとんどアルコール中毒といって差し支えないほどビールが大好きな女性だった。ケティと同じ大学を出ていて、英語はぺらぺら、昼間は観光客のためのお土産市場でものを売っている。私が写真を撮ろうとすると、写真撮られるのとSNSにあげられるの嫌いなんで、やめてねと言う。はっきりしていてかっこいい。テラス席でビールを飲んでいると風がどんどん強くなって、雨も混じってきた。ケティが、あそこにウィリアム・ビバンコがいる、と言って声をかけに行った。その人は、ハバナで活躍している有名なミュージシャンだった。ケティがビバンコに「私はあなたの大ファンで、今日は日本から詩人が来てる」というようなことを(多分)言って彼を自分たちの席に招いたので、私は自分の詩をスペイン語で朗読したり、いくつかの日本語を彼に教えたりすることになった。ビバンコも自分の話をした。今回が私の初めてのキューバで、今日は私のハバナの初日なんだと言うと、ビバンコはわーお!という感じで子どもみたいに喜んでくれて、月曜日に近くのバーでやるライブに招待するよと言う。ライブに招待? 初日から展開早すぎませんかねハバナさん。ビバンコはいかにも有名人らしく、会場の隅でテレビの取材を受けて、あっちやこっちへ挨拶したり、握手したりと動き回っていたけれど、いつのまにかどこかへ行ってしまった。ステージではキューバ音楽の野外フェスが繰り広げられていた。フェスの会場の後ろのほうで踊った。ケティはビバンコが近くにくるたびにダンスをせがんだので、3回目で断られていた。だけどふたりが最初に踊ったダンスの巧みだったこと! 南国に生息する鳥の求愛のダンスを見てるみたいで、ほんとうにほれぼれしちゃった。フェスがはけて会場が閉まるまで、女子3人で何杯もビールを飲んだ。路地で乗り合いタクシーを捕まえて、Nも一緒にAlamarへ帰った。

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ハバナ日記(1)

 午後遅く、出発。羽田空港の搭乗ゲートで、イヤホンをつけて音楽を耳に流しこみながら、出かける前の最後の仕事、新しい詩集の装幀についてのやりとりを片づける。ふだんそんなに忙しいわけじゃないのに、ジェットセッターみたいに空港で仕事のメールを高速で書いている自分がおもしろい。除菌ウェットティッシュを買った売店になぜか、数ヶ月前に壊れたカシオの腕時計とほとんど同じモデルの時計があって、免税品で六千円くらい。エイッと買ってしまう。ゴールドのレトロなやつ。カシオの腕時計が好きだ。このゴールドのは、アクセサリーをつけているようなうれしさもあるし、時間のことだけに集中して仕事をしてくれるので、まじめな友達といるみたいに安心なので好きだ。トロントまでの飛行機の相席は、団体旅行らしい女子大生(?)ふたり。「オリエント急行殺人事件」と「スリー・ビルボード」と「バトル・オブ・ザ・セクシーズ」観る。トロントの乗り継ぎはとてもスムーズ。空港の窓から見える景色はいちめんの雪だった。ハバナへの便には日本人観光客がたくさん乗っていた。

 2月1日、夜のハバナに降りたち、アダとケティと再会。女子高生みたいにきゃーきゃー騒ぎながら出迎えてくれるふたりとハグ。タクシーの運ちゃんも来ている。空気はむわっと暖かい。4人で一緒に、空港の外のカフェで小さいコーヒーをくっと一杯、テキーラショットみたいに立ち飲み。1時間くらいドライブして、滞在先のAlamarに到着した頃にはもう真夜中だった。いつも思うけど、旅先で、空港から宿泊先へ向かうときだけに感じる気持ちがある。もう着いてるのにまだ着いてない場所を眺めながら移動する、ふしぎな時間。ハバナなんだ、ここ、まじでハバナなんだ、ときょろきょろしながら驚いて、でもそのときに見ている風景は、あとから考えると全然ハバナじゃない(東京モノレールから見える風景が全然東京じゃないみたいに)。タクシーを降りると、団地だった。暗くてよく見えないけれど、すぐそばで海が海鳴りしていた。ケティの叔母さんが起きてきて、暖かいお茶を出してくれた。泊まる部屋は、叔母さんの家のお隣さんの激安民泊で、アダと相部屋。そのアダは風邪を引いて咳をしている。日本からもってきたトローチと頭痛薬をあげて、シャワーも浴びずに眠った。

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グアヤキル国際詩祭(3)

 日本という国では、自分の国に生まれてから死ぬまでずーっと住むことがとても自然で、それが基本の生き方のように認知されているところがあるけど、国際詩祭に参加すると、それはまったく基本なんかではないということを改めて思い知らされる。すべてのプログラムが終わったあとの打ち上げの席で、クルディスタンフセインと少しお話しした。彼はいまドイツのボンに住んでいる。ふだんは赤十字で働いていて、シリアや他のいろんな場所から毎日亡命してくる人に、着るものや住む場所を渡している。そして、年に一度開催されるモロッコの詩祭のディレクターをしながら、自分も世界各地の詩祭に参加している。
 そもそも、クルディスタンという国はない。フセインにとって、自分の国とは、自分の背負っている文化のことだ。20年前、フセインはシリアから亡命した。だから、フセインのいまの仕事には、とても筋が通っている。彼の詩に、亡命を直接題材にしたものはない。亡命して、異国に住む場所や生きる道が必要な人には、まず、服や食べものが必要だから、詩じゃなくて服や食べものを届ける。そして、自分は国を失って生きているひとりの人間として、詩をかく。
 フランスから来たアダは、参加者のなかでいちばん若く、いつも長いドレスを着ていて、ひとりでいるときはいつもイヤホンしていて、ちょっとギャルっぽいところがあって、ちょっとdopeっぽい雰囲気もあって、かっこいい。スペイン語も英語もぺらぺらで、煙草をすぱすぱ吸いながら、アルゼンチンの詩人のおじさんに向かって「あんた英語下手すぎでしょ。(Your English is very bad.)」と笑いながら言ったりする。アダのプロフィールの国はフランスになっているけど、私が「(フランスの)どこから来たの?」と聞くと、いまはキトに滞在していて、その前はニュージーランドに住んでいて、自分でもどこから来たのか、もうよくわかんないと言っていた。でも彼女の詩はフランス語だった。朗読のときは、フランス語でまず読んでから、スペイン語訳も自分で朗読していた。パリを舞台にした、ジャズや夜についての詩があって、それはフランス語を遠い昔にかじっただけの私にもちょっとだけ聞きとれた。嬉しくなって「今日、あなたの詩よかった!(Aujourd'hui, j'adore ta poem!)」と言ったら、「えー、じゃあ昨日はダメだった?」と笑いながら言った。
 ミンディは台湾出身の中国の詩人だけど、ロサンゼルスにもう二〇年余り住んでいる。持っていった現代詩手帖の「旅する現代詩」特集の目次を見せたら、この人も、この人も、知ってます、と教えてくれた。ミンディの詩には、私が子どもの頃に読んだ日本の昔話とそのまま繋がるような、寓話的に語られるものがいくつもあった。私はあとから、ミンディがスペイン語のできない私たちのために、中国語のあと英語でも読んでくれていたことに気づいた。
 ミンディが教えてくれた、中国の詩祭の話。あるとき、世界中からたくさんの人を呼んで、国際詩祭をやった。ディレクターは街のあちこちを見せて回ってばかりで、朗読の場がほとんどなかった。やっと朗読会になると、会場は野外で、とても寒くて、みんなで輪になって焚き火を囲んだけど、中央で朗読するときしか火のそばに行けないので、みんな震えながら自分の順番を待っていた。ある詩人は、私はこの一回の朗読のために、わざわざここまで来たのか!と怒ったそうだ。でも私は、そうだとしても国際詩祭が行われる中国が羨ましかった。東京で詩祭ができたら、連れてきたい人がたくさんいる。詩の翻訳と、簡単な通訳のできる人が何人かいれば、詩祭はたぶんどこででもできる。
 グアヤキル国際詩祭のディレクターのアウグストは、Facebookでは私とずっと英語でやりとりしていたのに、詩祭が始まると英語を忘れてしまったかのようにスペイン語の人になった。スペイン語圏の詩人や作家がたくさん来ていたから、その豊かな世界を仕切るのでせいいっぱいだったのだと思う。
 たとえどんなに流暢に二カ国語が話せても、ことばを切り替えるのはそんなに簡単なことじゃない。私は日本を出ると、サバイバルホルモンが英語の記憶を刺激するのか、日本にいるときより英語がうまくなる。日本にいるときにはいくら考えても出てこない単語が、ちょっと外に出ただけでスルスル出てくる。ことばは通貨に似ている。私の鞄には日本語のお財布と英語のお財布が入っているけど、使わないほうのお財布はどんどん鞄の奥底に沈んでいって、取り出しにくくなる。よく使うお財布はお金やカードが頻繁に出入りして、常に新しい現代語の空気に触れていることができる。
 バルセロナの小さな文芸出版社、CANDAYAのオルガとパコ夫妻とお別れするときは、泣いてしまった。私たちはお互いのことばをまったく話せないのに、私は岩波少年文庫の「ドン・キホーテ」で感動したし、オルガは芥川の「蜜柑」が大好きだし、パコは日本の作家や詩人を教えてと言ってペンとメモを差しだしてくれた。以前、日本人に、CANDAYAは日本語でも何か意味すると聞いた覚えがあるんだよ、とパコが言った。私は、たぶん、「神田屋」のことじゃないかな、と思った。神田は本の町だから、そのままの屋号で日本でも商売できちゃうね、って私は言いたかったけど、神田という町のことを説明するだけで精一杯だった。パコは少し英語ができた。オルガとはスペイン語の単語を投げ合った。彼らと少し込み入ったお話しをするとき、アメリカの大学に勤めているマリアがいつも傍にいて通訳してくれた。お別れのとき、マリアの前でも泣いてしまった。三人とも、世界中の詩や小説を食べて、私よりもずっと多くの時間を生き延びてきたのだ。ほんとに私は、勇気をもらう。

グアヤキル国際詩祭(2)

  夜7時から、Casa de la Cultura(文化の家)という建物で、詩祭のオープニングが始まることになっていた。スケジュールを見ると7時ちょうどから関係者の挨拶があって、7時15分から朗読が始まることになっていた。噂には聞いていたけれど、ここの人たちはそんなこと、誰も気にしていなさそうだった。7時半頃からようやく、プログラムスタート。

 5人ずつ壇上にあがってそれぞれ2、3篇読むという進行が、3.5回繰りかえされた。私が耳で聞いて理解できるのは、ウェールズから来たゾエの英語の詩のみ。中国出身でロス在住のミンディのパフォーマンスは、白い糸と赤い糸を組み合わせたものを繰りだしたり、巻物状の紙に漢字で書かれたものを使ったり、工夫が効いている。
 私は「テロリストたち」1篇だけを、スペイン語と日本語で読む。少なくともこれだけはスペイン語で読めるようにしておこうと思って、練習しておいたのだった。私が練習したから読めただけで、ほんとうにスペイン語を喋ることはできないと知っている人たちも、アフターパーティーで私にスペイン語で話しかけてくる。よくわからないけれど、何人かの人たちは、すごく褒めてくれていた。ひとえに、自分で読むことを薦めてくれた管啓次郎さんと、翻訳してくださった南映子先生と、ネイティブチェックしてくださったヒメーナ・エチェニケ・サンチェスさんのおかげです。
 9時頃終わるはずだったオープニングイベントは、すべて終了してみると10時をとっくに過ぎていた。あーやれやれ、という雰囲気は漂いつつも、誰も文句を言う人はいない。ゾエと私は、お腹すいたね…とこっそり言いあう。

 主催のひとりのシオマーラさんの家でアフターパーティーがあるというので、バンに乗り合わせて向かう。街の中心部から車で20分くらい走ると壁に囲まれた高級住宅地があって、警備員の詰めた関所を通らないと、そのエリアには入れない。エリアのなかは日本の郊外の家と同じかもっと大きな家が建ち並んで、見るからに住み心地がよさそう。ミンディは、poorなのは中心街だけで、richな人もいるんだね、もうpoorな国とは言えないかもね、とニュートラルな面持ちで感想を言う。壁の内側に入れる人たちが当然のように行使している権利は、やっぱり翻って、こうして壁で隔てなければ共存できないほどの格差が存在することを裏付けている。でも、この国ではそれが関所や壁の形で目に見えるだけで、そのことにセンチメンタルになるなら、自分の国だって同じじゃないかと思った。「テロリストたち」なんていう題名の詩を読んだ直後に、こんなふうに壁の内側に入っていく自分を発見することは、自分の甘さを誰かに見透かされているような気がして、かなしかった。
 今回の旅に連れてきた村上慧さんの「家をせおって歩いた」(夕書房)は、この見えたり見えなかったりする壁について徹底的に考察=行動したことの記録で、読んでいると息が、苦しくなってくるほどなのだけれど、いま読めてすごくよかったと思う。なんとなく豊かっぽいのに、私たちの生活に開放感が全く感じられないのはなぜかという、とても見えづらい問題を、実行したことに基づいて、ちゃんと言葉のかたちにしてある。まだ読んでいる途中だけど、すごく貴重な本なんじゃないかと思った。
 シオマーラさんの家の表札には、Aqui vive una Poeta(詩人ここに住まう)とある。