ハバナ日記(1)

 午後遅く、出発。羽田空港の搭乗ゲートで、イヤホンをつけて音楽を耳に流しこみながら、出かける前の最後の仕事、新しい詩集の装幀についてのやりとりを片づける。ふだんそんなに忙しいわけじゃないのに、ジェットセッターみたいに空港で仕事のメールを高速で書いている自分がおもしろい。除菌ウェットティッシュを買った売店になぜか、数ヶ月前に壊れたカシオの腕時計とほとんど同じモデルの時計があって、免税品で六千円くらい。エイッと買ってしまう。ゴールドのレトロなやつ。カシオの腕時計が好きだ。このゴールドのは、アクセサリーをつけているようなうれしさもあるし、時間のことだけに集中して仕事をしてくれるので、まじめな友達といるみたいに安心なので好きだ。トロントまでの飛行機の相席は、団体旅行らしい女子大生(?)ふたり。「オリエント急行殺人事件」と「スリー・ビルボード」と「バトル・オブ・ザ・セクシーズ」観る。トロントの乗り継ぎはとてもスムーズ。空港の窓から見える景色はいちめんの雪だった。ハバナへの便には日本人観光客がたくさん乗っていた。

 2月1日、夜のハバナに降りたち、アダとケティと再会。女子高生みたいにきゃーきゃー騒ぎながら出迎えてくれるふたりとハグ。タクシーの運ちゃんも来ている。空気はむわっと暖かい。4人で一緒に、空港の外のカフェで小さいコーヒーをくっと一杯、テキーラショットみたいに立ち飲み。1時間くらいドライブして、滞在先のAlamarに到着した頃にはもう真夜中だった。いつも思うけど、旅先で、空港から宿泊先へ向かうときだけに感じる気持ちがある。もう着いてるのにまだ着いてない場所を眺めながら移動する、ふしぎな時間。ハバナなんだ、ここ、まじでハバナなんだ、ときょろきょろしながら驚いて、でもそのときに見ている風景は、あとから考えると全然ハバナじゃない(東京モノレールから見える風景が全然東京じゃないみたいに)。タクシーを降りると、団地だった。暗くてよく見えないけれど、すぐそばで海が海鳴りしていた。ケティの叔母さんが起きてきて、暖かいお茶を出してくれた。泊まる部屋は、叔母さんの家のお隣さんの激安民泊で、アダと相部屋。そのアダは風邪を引いて咳をしている。日本からもってきたトローチと頭痛薬をあげて、シャワーも浴びずに眠った。

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グアヤキル国際詩祭(3)

 日本という国では、自分の国に生まれてから死ぬまでずーっと住むことがとても自然で、それが基本の生き方のように認知されているところがあるけど、国際詩祭に参加すると、それはまったく基本なんかではないということを改めて思い知らされる。すべてのプログラムが終わったあとの打ち上げの席で、クルディスタンフセインと少しお話しした。彼はいまドイツのボンに住んでいる。ふだんは赤十字で働いていて、シリアや他のいろんな場所から毎日亡命してくる人に、着るものや住む場所を渡している。そして、年に一度開催されるモロッコの詩祭のディレクターをしながら、自分も世界各地の詩祭に参加している。
 そもそも、クルディスタンという国はない。フセインにとって、自分の国とは、自分の背負っている文化のことだ。20年前、フセインはシリアから亡命した。だから、フセインのいまの仕事には、とても筋が通っている。彼の詩に、亡命を直接題材にしたものはない。亡命して、異国に住む場所や生きる道が必要な人には、まず、服や食べものが必要だから、詩じゃなくて服や食べものを届ける。そして、自分は国を失って生きているひとりの人間として、詩をかく。
 フランスから来たアダは、参加者のなかでいちばん若く、いつも長いドレスを着ていて、ひとりでいるときはいつもイヤホンしていて、ちょっとギャルっぽいところがあって、ちょっとdopeっぽい雰囲気もあって、かっこいい。スペイン語も英語もぺらぺらで、煙草をすぱすぱ吸いながら、アルゼンチンの詩人のおじさんに向かって「あんた英語下手すぎでしょ。(Your English is very bad.)」と笑いながら言ったりする。アダのプロフィールの国はフランスになっているけど、私が「(フランスの)どこから来たの?」と聞くと、いまはキトに滞在していて、その前はニュージーランドに住んでいて、自分でもどこから来たのか、もうよくわかんないと言っていた。でも彼女の詩はフランス語だった。朗読のときは、フランス語でまず読んでから、スペイン語訳も自分で朗読していた。パリを舞台にした、ジャズや夜についての詩があって、それはフランス語を遠い昔にかじっただけの私にもちょっとだけ聞きとれた。嬉しくなって「今日、あなたの詩よかった!(Aujourd'hui, j'adore ta poem!)」と言ったら、「えー、じゃあ昨日はダメだった?」と笑いながら言った。
 ミンディは台湾出身の中国の詩人だけど、ロサンゼルスにもう二〇年余り住んでいる。持っていった現代詩手帖の「旅する現代詩」特集の目次を見せたら、この人も、この人も、知ってます、と教えてくれた。ミンディの詩には、私が子どもの頃に読んだ日本の昔話とそのまま繋がるような、寓話的に語られるものがいくつもあった。私はあとから、ミンディがスペイン語のできない私たちのために、中国語のあと英語でも読んでくれていたことに気づいた。
 ミンディが教えてくれた、中国の詩祭の話。あるとき、世界中からたくさんの人を呼んで、国際詩祭をやった。ディレクターは街のあちこちを見せて回ってばかりで、朗読の場がほとんどなかった。やっと朗読会になると、会場は野外で、とても寒くて、みんなで輪になって焚き火を囲んだけど、中央で朗読するときしか火のそばに行けないので、みんな震えながら自分の順番を待っていた。ある詩人は、私はこの一回の朗読のために、わざわざここまで来たのか!と怒ったそうだ。でも私は、そうだとしても国際詩祭が行われる中国が羨ましかった。東京で詩祭ができたら、連れてきたい人がたくさんいる。詩の翻訳と、簡単な通訳のできる人が何人かいれば、詩祭はたぶんどこででもできる。
 グアヤキル国際詩祭のディレクターのアウグストは、Facebookでは私とずっと英語でやりとりしていたのに、詩祭が始まると英語を忘れてしまったかのようにスペイン語の人になった。スペイン語圏の詩人や作家がたくさん来ていたから、その豊かな世界を仕切るのでせいいっぱいだったのだと思う。
 たとえどんなに流暢に二カ国語が話せても、ことばを切り替えるのはそんなに簡単なことじゃない。私は日本を出ると、サバイバルホルモンが英語の記憶を刺激するのか、日本にいるときより英語がうまくなる。日本にいるときにはいくら考えても出てこない単語が、ちょっと外に出ただけでスルスル出てくる。ことばは通貨に似ている。私の鞄には日本語のお財布と英語のお財布が入っているけど、使わないほうのお財布はどんどん鞄の奥底に沈んでいって、取り出しにくくなる。よく使うお財布はお金やカードが頻繁に出入りして、常に新しい現代語の空気に触れていることができる。
 バルセロナの小さな文芸出版社、CANDAYAのオルガとパコ夫妻とお別れするときは、泣いてしまった。私たちはお互いのことばをまったく話せないのに、私は岩波少年文庫の「ドン・キホーテ」で感動したし、オルガは芥川の「蜜柑」が大好きだし、パコは日本の作家や詩人を教えてと言ってペンとメモを差しだしてくれた。以前、日本人に、CANDAYAは日本語でも何か意味すると聞いた覚えがあるんだよ、とパコが言った。私は、たぶん、「神田屋」のことじゃないかな、と思った。神田は本の町だから、そのままの屋号で日本でも商売できちゃうね、って私は言いたかったけど、神田という町のことを説明するだけで精一杯だった。パコは少し英語ができた。オルガとはスペイン語の単語を投げ合った。彼らと少し込み入ったお話しをするとき、アメリカの大学に勤めているマリアがいつも傍にいて通訳してくれた。お別れのとき、マリアの前でも泣いてしまった。三人とも、世界中の詩や小説を食べて、私よりもずっと多くの時間を生き延びてきたのだ。ほんとに私は、勇気をもらう。

グアヤキル国際詩祭(2)

  夜7時から、Casa de la Cultura(文化の家)という建物で、詩祭のオープニングが始まることになっていた。スケジュールを見ると7時ちょうどから関係者の挨拶があって、7時15分から朗読が始まることになっていた。噂には聞いていたけれど、ここの人たちはそんなこと、誰も気にしていなさそうだった。7時半頃からようやく、プログラムスタート。

 5人ずつ壇上にあがってそれぞれ2、3篇読むという進行が、3.5回繰りかえされた。私が耳で聞いて理解できるのは、ウェールズから来たゾエの英語の詩のみ。中国出身でロス在住のミンディのパフォーマンスは、白い糸と赤い糸を組み合わせたものを繰りだしたり、巻物状の紙に漢字で書かれたものを使ったり、工夫が効いている。
 私は「テロリストたち」1篇だけを、スペイン語と日本語で読む。少なくともこれだけはスペイン語で読めるようにしておこうと思って、練習しておいたのだった。私が練習したから読めただけで、ほんとうにスペイン語を喋ることはできないと知っている人たちも、アフターパーティーで私にスペイン語で話しかけてくる。よくわからないけれど、何人かの人たちは、すごく褒めてくれていた。ひとえに、自分で読むことを薦めてくれた管啓次郎さんと、翻訳してくださった南映子先生と、ネイティブチェックしてくださったヒメーナ・エチェニケ・サンチェスさんのおかげです。
 9時頃終わるはずだったオープニングイベントは、すべて終了してみると10時をとっくに過ぎていた。あーやれやれ、という雰囲気は漂いつつも、誰も文句を言う人はいない。ゾエと私は、お腹すいたね…とこっそり言いあう。

 主催のひとりのシオマーラさんの家でアフターパーティーがあるというので、バンに乗り合わせて向かう。街の中心部から車で20分くらい走ると壁に囲まれた高級住宅地があって、警備員の詰めた関所を通らないと、そのエリアには入れない。エリアのなかは日本の郊外の家と同じかもっと大きな家が建ち並んで、見るからに住み心地がよさそう。ミンディは、poorなのは中心街だけで、richな人もいるんだね、もうpoorな国とは言えないかもね、とニュートラルな面持ちで感想を言う。壁の内側に入れる人たちが当然のように行使している権利は、やっぱり翻って、こうして壁で隔てなければ共存できないほどの格差が存在することを裏付けている。でも、この国ではそれが関所や壁の形で目に見えるだけで、そのことにセンチメンタルになるなら、自分の国だって同じじゃないかと思った。「テロリストたち」なんていう題名の詩を読んだ直後に、こんなふうに壁の内側に入っていく自分を発見することは、自分の甘さを誰かに見透かされているような気がして、かなしかった。
 今回の旅に連れてきた村上慧さんの「家をせおって歩いた」(夕書房)は、この見えたり見えなかったりする壁について徹底的に考察=行動したことの記録で、読んでいると息が、苦しくなってくるほどなのだけれど、いま読めてすごくよかったと思う。なんとなく豊かっぽいのに、私たちの生活に開放感が全く感じられないのはなぜかという、とても見えづらい問題を、実行したことに基づいて、ちゃんと言葉のかたちにしてある。まだ読んでいる途中だけど、すごく貴重な本なんじゃないかと思った。
 シオマーラさんの家の表札には、Aqui vive una Poeta(詩人ここに住まう)とある。

グアヤキル国際詩祭(1)

 7月10日。出発。
 羽田発ロサンゼルス行きの便では高校生の研修旅行団体、ロサンゼルス発ニューヨーク行きではユダヤ人の新社会人青年と在NY台湾人のおばちゃん、ニューヨーク発グアヤキル行きではPortoviejoという街に帰るスペイン語の先生アンジェと、隣り合わせた。
 アメリカでの乗り継ぎは、この国の脅え、Freaking outが目に見えるかのよう。寛大な心で国境を跨ごうとしながら、国の中の人の脅えに付き合わなければならないこちらは、ほんとうに疲れてしまう。しかも、30時間近い移動で判断力が鈍ったか、JFKではゲートに向かおうとしてEXITに出てしまった。急いで走って戻って、またぞろセキュリティチェックを受けるはめになる。これにはほんとうにへとへとになった。飛行機を降りるときには、自分がどの棚にリュックを収納したのかも思いだせないくらいの疲れ。
 ニューヨーク行きの便は、まるでニューヨークの人は全員知り合いみたいに、誰もかれもが隣どうしの人とにこやかにお話ししている。それはもしかしたら、あのFreaking outの裏返しなのかもしれない。それでも基本的にフレンドリーであろうとする人々に混じるのは、気が楽。ビジネスクラスの席には、映画「ペット」に出てきそうな、頭のよさそうな黒いテリアを連れた、細身の丸眼鏡をかけてプラチナ色に髪を染めた端正な姿のおじさまが座っている。完成されたゲイのかたというのは、ほんとうにうつくしい。
 グアヤキル行きの便は、ほとんどがエクアドルに帰る人。かなり年とって足のわるい人や、キラキラの緑のスパンコール付き民族衣装を着た、骨格のしっかりした女性たちもいる。隣に座ったアンジェは、最初に自己紹介すると自分の家族の写真をスマホで見せてくれて、私がパートナーと一緒に住んでいるというと、結婚はどうするのか?とすぐに確認して、乱気流ですこし飛行機が揺れるたびにとてもこわがって、何度もお祈りを唱えた。それから、Our god is Jesus(へスース). と言った。飛行機が無事に着いたときにも、手をあわせて神様に感謝した。

 グアヤキル空港では早朝にもかかわらずたくさんの人が出迎え口に集まっていて、どうやら歌手が降りてくるのを待っていたらしい。あとで聞いたら、エクアドルの人はSo into musicなんだ、と通訳のエドガーが教えてくれた。

 東京より気温はちょっとだけ低く、湿度はちょっとだけ高い。食べものを心配していたけど、メキシカンにかなり近いらしく、セビッチェもあるというので、狂喜(まだ食べていない)。ランチはあまり食べられなかったけど、それでもチキンソテーにごはんにじゃがいもスープにバナナ揚げ、おいしかった。疲れがとれたら、もっとたくさん食べられるだろう。
 午後、ほかのメンバーや詩祭のまとめ役アウグストと合流して、イグアナ公園までお散歩。私はみんなと話すたびに、No hablo español.(スペイン語話せません。)とか、yo estudio español por tres meses.(スペイン語3ヶ月勉強してます)とか言ってみる。みんな、おっけーおっけー、って感じで対応してくれる。みんなはもうCervesa(ビール)を行きがけにスーパーで買って、飲みながら歩いている。私はまだ、Despues. あとで。Agua agua agua, Veinta cinco, (みずーみずーみずー25セントー)と叫びながら歩きまわっている、水売りのお兄ちゃんがときどき来る。

 ホテルから歩いて15分くらいのところに、イグアナ公園。イグアナだけではなくて、鳩(paroma)とリスとミドリガメもいる。葉をたくさん茂らせた巨木がそこここにあって、その1本は葉っぱみたいに鳩が乗って休んでいる。鳩だけではなくて、イグアナも休んでいる。
 イグアナは木にどんどん登る。ヤシの木の、一本道の幹を、上へ上へと登っていって、下へ降りてくるイグアナとすれ違っている。また別の木は、幹の表面がイグアナの背中と相似形になっている。とさかのついてるのとついてないのがいる。ときどき、誰かの話を聞いてるみたいに、とさかを揺らしてうんうんうんうんと頷く。男と女はどうやって見分けるのか聞いたら、アウグストに「男っぽいのが男だ」と言われる。なんだ、猫と同じか、と私、思う。ひとまわり小さくて緑の濃いのが子どもなんだそうだ。大きいのは、手足が黄色くなって全体に色が褪せている。人間と同じで、年をとってくると青い色素が減退して、黄色い色素が浮かんでくるのかな、と私、思う。

きれいな晴れの日

 5月8日、月曜日。ゴールデンウィーク中は観光客や帰省してきた人たちで賑わっていた鵠沼海岸周辺は、すっかりいつもの落ちつきを取り戻したように見える。連休のあいだ、木曜も金曜も土曜も日曜も、ずーっと晴れていた。今日もきれいに晴れている。きれいな晴れ、と言うとき、私の脳裏には英語のsereneが浮かんでいる。同時に、ヘミングウェイの小説のタイトル "A clean, well-lighted place" も思いだす。この小説の邦題は『清潔で、とても明るいところ』と訳されていて、そのほうが正確なのだろうけれど、私は勝手に『きれいで、とても明るいところ』と呼んでいる。「きれい」と「clean」に通じるk-l-iの音が、きゅっと磨かれた白い陶器のお皿のようなイメージで結びついているのだ。
 でもsereneという言葉は、もっと広々としたきれいさを想像させる。Oxfordで引いてみると、Calm, peaceful, and untroubled; tranquil.とある。untroubled...何の心配もなく、さっぱりして、清浄で、静かな感じ。やっぱり、Sのもつさわやかな清々しさのイメージで結びついている。
 きれいな晴れ、と思ったのには、ほかにも理由があるかもしれない。連休中大勢の人で賑わっていた海岸にひとけがなくなり、人間たちの食べものを狙っていたトンビやカラスもいなくなって、きゅーっとクロスで拭いたような快晴の青空。sereneとcleanの語感が混じり合って、わたしは「きれいな晴れ」を聞いているのか見ているのか、わからなくなってくる。

 7月のエクアドル国際詩祭に持って行くため、中央大学の南映子先生と、メキシコの小説家ヒメーナ・エチェニケ・サンチェスさんに共同でスペイン語訳していただいた自作の詩のなかから、"Terroristas"の前半をノートに書き写した。「侵入者は清潔です/はだかんぼですからね」という箇所は、los intrusos están limpios / pues están desnuditos と訳されている。その何行か前に「あまりお風呂に入らないふたりは」というくだりがあって、お風呂に入っていないのにお風呂上がりのような清潔感のある男女を想像することができたら面白いと思って、呼応させたものだ。
 スペイン語で「きれい=清潔な」はlimpio,limpia。キュキュッとした清潔感をイメージするとき、人はL音と破裂音を組み合わせたくなるのだろうか。
 スペイン語で「晴れ」はdespejado, despejada。語源はまだ調べてないけれど、ぜんぜん晴れっぽくない。

Yo vivo cerca de mar.
Hoy miro el cielo limpio. Un dia muy despejado.

犬という名前の猫

 スペイン語で、犬はペロ(perro)と言うらしい。(ちなみに、peroはbutで、peloは体毛だそうだ。)このことを私が知ったのはつい最近、スペイン語の勉強を始めたからで、私がスペイン語の勉強を始めたのは、猫を飼いはじめた後のことだった。
 去年の秋、猫を飼いはじめて、ぺろと名付けた。名付けたのは私ではなくHだった。そもそもHはペローニというイタリアのビールが大好きで、ローマでペローニの味に酔いしれてからというもの、日本では取り扱っていないそのビールの味を懐かしがって、事あるごとにペローニペローニ言っていた。猫の名前はいつのまにかぺろになっていた。飼い始める前から、彼もしくは彼女はぺろだった。大塚のシェルターに猫を見に行くと決めたとき、「ぺろがいたら引き取ろう。いなければ退散だ。」と私たちは同意していた。そのときすでに私は負けていた。書類記載上、ひらがなにしたのがせめてもの抵抗だった。

 猫を飼うつもりはなかった。飼いたい飼いたいと言ってはいたけれど、飼えばフットワークが重くなるとわかっていた。何度も、友達から「捨て猫を拾ったので飼わないか」と連絡を受け、その都度タイミングが合わなかったり、いろいろ理由をつけたりして、飼わずにいた。それでもついに飼わずにいられなくなった出来事があった。
 近所に松のたくさん生えた公園がある。夜、コンビニまでアイスやポテトチップを買いにいくとき、いつもその公園の脇を通る。公園は道の右側。道の左側にはコンクリートの敷かれた駐車場があって、夏頃にそこを通ると、駐車場にぺたっと居座り、尻尾を優雅に揺らす大きな白黒猫がよくいた。駐車場の奥の家で飼われている猫らしかった。私はその猫を見るだけで満足していた。ああ、また前の部屋に住んでいたときのように、近所の半外飼いの猫や地域猫とつかず離れずの距離でコミュニケーションをとる日々が始まるのだろうな、それはそれで愉快愉快、この地域が猫のいる地域でよかったなと思っていた。
 ところがどっこい。ある夜、いつものようにその道を通ると、公園の入口に、みかけない子猫がいた。これは、とうとう私にも、捨て猫を拾うという、あの限られた人々にしか与えられないチャンスが巡ってきたなと思った。植え込みの草のなかで無邪気に遊んでいる子猫はなんともinnocentでvulnerableだった。よし、持って帰るぞと思っていると、後ろからHが言った。「それはあの白黒猫の子どもだ。したがってあの駐車場の奥の家で飼われているはず。だとすると、その子猫を持って帰ると誘拐ということになる」。
 言われてみれば公園の奥のほうからあの白黒猫がピカーンと両眼を反射させてこちらを監視しているのだった。いったい捨て猫の神はどこをほっつき歩いているのかなと私は思った。でもやっぱり誘拐はよくないと思った。後ろ髪をひかれまくりながら、その場を離れた。たぶんその瞬間、猫を飼うということは、私のなかで決定事項になったのだった。
 あれから半年以上経つのに、親猫も子猫も、それ以来二度と見ていない。うちにはぺろが来て(ほんとうはケルンかゲルダかフラニーかゾーイがよかった)、やっぱりあの親子が捨て猫の神だったのだとしか思えない。

*今日のスペイン語
スペイン語でperroは犬。perro salchichaは細いソーセージの犬でダックスフント。そして、猫はgato、雌猫はgata。私は猫を飼っている。Yo tengo una gata. No un perro. Pero su nombre es Pero. Ella es una gata negro.

エルヴィラ・シュタイフのための夢想

アドリエンヌ・リッチ

詩集"The Dream of Common Language"より

 

冷たくて冷たくて 私たちの血も
冷たくなった それから風が
死にたえて私たちは眠った

この眠りのなかで話すとしたら
私の声はもう私だけのものじゃない
(私は言いたい 複数の声で)
私たちの息を 風が最後に引き裂いたとき
言葉はいっさいいらなかった
何か月も 何年も 私たちひとりひとりが
自分たちのなかに 「YES」が育ってゆくのを感じてた
それは少しずつ形成されていった 窓辺に立って 待ちながら
電車を リュックを修理しながら 髪を梳かしながら
私たちが学ぼうとしていたことは そのまま 私たちの前に
ここにあった すべての言葉の外に あの「YES」が 集まって
強くなって 自ら発熱して そしてちょうどそのとき
温度のない「NO」に出会った
世界を吸いこむ ブラックホール

あなたが私に向かって登ってくるのを感じる
滑りどめをしたあなたの山靴の底が 幾何学的に食いこんだ場所を 離れて
極微の結晶の上に その跡が巨大に浮かびあがる
コーカサスであなたを追跡したときのように
いまは遠く
前方で 私たちのどちらも想像しなかった 者に
私はなった

風でアスファルトみたいに押しつぶされた白い雪
私の愛した女性は 山に向かって 軽々と投げとばされて
あの青空を
私たちの凍った目は開き見た ストームをくぐりぬけて
私たちはあの青さを縫うこともできた 一緒に キルトのように

あなたは来る(わかってる) あなたの愛と 失ったものと
肉体に結ばれて それからテープレコーダーと カメラと
アイスピックも アドバイスに背いて持って
私たちを雪のなかに埋葬するため そしてあなたのなかに
わたしの肉体はここに横たわっているあいだ
プリズムみたいに光って あなたの目に入って
あなたは眠れなかっただろう あなたは自分のためにここへ登った
私たちは私たちのために登った

あなたが私たちを埋葬したら あなたの物語を語ればいい
私たちのは終わらない 私たちは流れていく
終わらない場所 始まらない場所へ
可能な場所へ
すべての細胞核の熱が 私たちを超えて脈打ってゆく
薄い空気のなかへ 宇宙へ
この雪の下には岩の防護
私たちの思考の痕跡を 奪った この山
本質的な変化と些細な変化
私たちも経験したように
互いをここに運んできたもの
私たちを 互いを この生を選んで
そのひと呼吸ずつ 握った手 次の足場
それはどこかで まだくりひろげられて 続いている

日記にはこう書いた「覚悟はできました
私たち全員がわかっています 私はかつてここまで
愛したことはありません 見たことがありません
私自身の力が こんなにも引き上げられ 共有され
そして送り返されたのを
当初からしつこかった 長いトレーニングの後で
私たちはもはやなんの努力もなしに愛情のもとに動いています

風が 破きはじめた日記の中で
私たちを覆うテントのなかで 私は書いた
「いつも危険のなかにいたといまではわかります
街で別々だった私たちが
いまこの山の上では一緒なのです でもいままでは
私たちは自分たちの強さに触れたことはなかった

私の指から破れた日記に私はこう書いていた
「愛とは何でしょうか
それは何を意味するのでしょうか 「生き延びること」です
青火のケーブルが私たちの体を繋いで
雪のなかで一緒に燃えています 私たちは生きようとは思いません
易しいほうで甘んじるのなら 私たちはこれを夢見ていたんです
私たちの全生命を

 

 

 

 

※エルヴィラ・シュタイフは、1974年8月のレーニン・ピークでのストームによって全員が死亡した女性登山チームのリーダー。後日、シュタイフの夫が彼女たちの遺体を発見し、埋葬した。