きょうの風景(5/4?)

夢で。
渋谷の、道玄坂のほうか、円山町の先のほうか、その辺りに、富士急ハイランドにあるジェットコースターみたいな高速道路ができていて、ぽかんとみていると、ヘアピンカーブを曲がろうとした乗用車やトラックが遠心力のなすがままに、ぽーん、ぽーん、と道路から投げとばされて、落ちていく。こわいのかこわくないのかよくわからない気持ちで坂を歩いていると、正面の坂の上からトラックが、コントロール不能、という感じのものすごいスピードで迫ってきて、私と一緒に歩いていた男の子ふたりをダーンと引き倒していってしまう。わたしはあんまり驚かず「あ」と思うくらいで、そこに立っている。
場面がかわって、今度は私が車の助手席に乗っている。その車が、さっき見ていた超高所のヘアピンカーブに向かっているのがわかって、嫌だ嫌だ嫌だ嫌だと念じていると、ヘアピンカーブの手前で車は路線変更して、トンネル(私はそのとき、そんなところにトンネルがあったのね?と思っている)を抜けて、いつのまにか郊外の道を飛ばしている。感情がどこまでも希薄な夢で、起きたとき、うそさむかった。

官能的な演劇

俳優の仕事ってなんなんだろう。岡崎藝術座の演劇をみるといつもそのことを思うし、今回「アンティゴネ/寝盗られ宗介」をみて、ほんっと、なんなんだろ?と思った。俳優は、演出家の指示を受けて動く。やれ、と言われたことを受けいれる。すべてを受けいれることが俳優の仕事だとしたら、俳優は俳優そのものであるまま「アンティゴネー」のアンティゴネーであり、また「寝盗られ宗介」の座長だなぁ! アンティゴネ—はクレオンの命に背いてまでも神の命を受けいれる(つまり自分の属する国に反逆したからといって自分の兄との関係を断ち切らない)し、座長はレイ子をどんどん男に寝盗られても断固としてレイ子とも男たちとも関係を断ち切らない、どころか、ついには男の親戚の飼っている馬のアオの鼻をなでてやる約束をしてあげる。座長はアオのことを頼んだ男に言う、「こんな男は世界中どこを探してもいない、俺が最後の男だと思ってくれ」と。それはパンチラインで、観客はみんな笑うけど私も笑うけど、涙が出てくるよーと思う(これはほんとに、つかこうへいの台詞の凄さだと思う)。だってそれは、座長が自らの意思で誰かとの関係を断ち切ることはありえないという宣言であると同時に、そんな人はどこにもいないよね、というしみじみした述懐でもあるのだから。でも、そんな人はどこにもいなくない、俳優ってそんな仕事なんだ、きっと。少なくとも岡崎藝術座の作品における俳優の仕事は、どこまでも役を受けいれるという、ただそのことに尽きてると思う。今回の作品には、そのことがもっとも顕わになるテキストが二つ選ばれていたと思う。自分からもっとも遠い場所にいる誰かと契約をむすぶひと、それが俳優=アンティゴネ—=座長なんだ。そして、俳優=アンティゴネ—(は神と契約することでクレオンも伝令も自分のうちに含みこむ)=座長(はレイ子もジミーも自分のこととして面倒をみる)が喋り、動くと、髪は乱れ、コップから水がこぼれるように汗が滴り、汗の臭いと湿気が充満し、敷布は縒れ、息づかいが荒くなる。でもそれは、誰の髪だろう? 誰の汗で、誰の息づかいだろう? わからなくなりながら、目や耳で受け取る以上のことを私は受け取っている。「アンティゴネ/寝盗られ宗介」は、官能的な演劇だった。

4/23 岡崎藝術座
アンティゴネ/寝盗られ宗介」

すごくよくてすごくダウナー

日曜日、チェルフィッチュの「現在地」という演劇作品を観た。劇中に出てくる台詞で「私、ふるさとって言葉の感触って、なめくじみたいだって思っちゃうの。」というのがあって、あまりにも的を射ている(つまり、私がふるさとということばに感じてる感触というのはこれだったのか)と思って、その台詞を何度も口のなかで繰り返してしまった。
ミニマムな動き、ものごとのゆるやかな経過だけが示されるような動き(ゆっくりと曲がっていく女優さんの背骨や、昼の月に雲がかかってそれからまた流れて去ってゆく映像)があって、こみいった状況についての会話が続いていくのだけれど、落ちついて聞いていれば、どの言葉もはっきりと、皮ふに貼りつくように、きこえてきた。サンガツアンビエント音楽が静かでそわそわした気分にぴったりと寄り添ってきた。
観たあと、一緒に観たふたりに「すごくダウナーな気分になった」と言ったら、「そうだね、大麻系だったねー」とはじーが言った。すごくよくてすごくダウナーな気分になる演劇って、あんまり観たことがないと思った。というか、わたしは根がダウナーなので、自分の素の気分のようなものにこんなに近い表現をなまで観たということに、やっぱりただただ、驚いていた感じ。
とくに、彼氏と青く光る雲をみた女の子のエピソード(彼氏はその雲をロマンティックなものだと思い、女の子は不吉なものだと思う、その感じかたのずれのために、女の子は彼氏と別れてしまう)を、私はこれからもけっこういろんな場面で、思い出しそうだなと思った。そういうひとつひとつの、人と人とが言葉を交わすときの微細なずれみたいなものをどこまでも細かく検証していって、それがある状況を揺り動かしていくということを、こんなに丁寧にこんなに静かに、演劇で描くことができるんですね。すばらしかった。

4/22 チェルフィッチュ
『現在地』

音楽について(4/16)

「どんな音楽をききますか」と訊かれると困ってしまう。にも関わらず、同じ質問を私も人に対してする。私にとって、音楽は説明するのがとても難しい。アーティストの名前をお互いに知っていればいいけれど、それ以外のすべての場合には、それがどんな音楽なのか、言葉で説明しなければならない。ジャンルにも名前はある。例えばクラシックとか、ジャズとか、テクノとか、ハウスとか。エレクトロニカ、とか。でもわたしたちは音楽をきくとき、音楽ジャンルをきくわけではないので、フジ子・ヘミングさんのあの「ぶっ壊れそうな(これはフジ子さんの言葉)」、ぼーっとしてしまうラ・カンパネラをきいているのを「クラシックをきいています」というのはすごく語弊があると思うし、「ハウス・ミュージックをききます」と言っても伝わらなかったら「クラブに行ったりするのですが」と言い、すると「えっ大崎さんがクラブなんか行くんですか」と言われ、そのときその人が想像しているのは露出度の高い服装とかチャラチャラした熱気であったりするから、やっぱり語弊が生じることになる。
たとえば私がもっと音楽の言葉を知っていれば、ちょっとはましだろうか。「四つ打ち」とか「ビート」とか「グルーヴ」とか? でももし相手が「四つ打ち」を知らなかったら、「えーとね、ドンツードンツードンツードンツーって感じの……」ってなって、結局もうそれは「説明」ではない、きかせているのだ。音楽を誰かに薦めたいとき、私には「きいてもらう」という手しかない、でも音楽をむりやり誰かにきかせるくらい暴力的な行為もないと思う。それに、わたしが自分で人にきいてもらうことができるのは口でつくるリズムと人並みに音痴なメロディー、iPhoneのなかのとぼしいプレイリストくらいしかない。人に薦めようと思うことのあまりない、でも手ばなせない音楽もある。テレビドラマの「SPEC」にはまった時に買ったエンディングテーマとか、映画の「誰も知らない」をみたときからずっと気になっていたタテタカコさんをライブでみたときに買ったアルバムとか。そういうものは自分がその音楽を経験した場所の明るさとか湿度とかドラマや映画の映像とぴったり貼り合わさっているから、そっちなしで音楽だけを薦める気になりづらい。
音楽は言葉の手前にあるはずのものなのに、私にとって音楽は言葉のずっと向こうにある。わたしは音楽に憧れる、音楽に酔わされる、そして音楽を説明しようとおもうと、困ってしまう。


(以下、5/25追記)

ウォルター・ペイターが書いています。あらゆる芸術は音楽の状態にあこがれる、と。(もちろん、門外漢としての意見ですけれども)理由は明らかです。それは、音楽においては形式と内容が分けられないということでしょう。メロディー、あるいは何らかの音楽的要素は、音と休止から成り立っていて、時間のなかで展開する構造です。私の意見では、分割不可能な一個の構造です。メロディーは構造であり、同時に、それが生まれてきた感情と、それ自身が目覚めさせる感情であります。オーストリアの批評家のハンスリックは、音楽は我々が用い、理解もできるが、しかし翻訳することはできない言語である、と書いています。
ボルヘス「詩という仕事について」 (岩波文庫)より

きょうの風景(4/8)

夜風の気持ちよくはいってくる部屋で、HIKARUの音楽をききながら、せいこさんと喋って、とうこさんといっぱい遊んだ。せいこさんの作ってくれた料理がぜんぶおいしかった。ウーウェンさんのレシピの白身魚の黒酢ねぎソース、うすあじの根菜スープ。せいこさんの料理を食べるたびに思う、はじーの料理にとてもよく似ていると思う。どんな料理にも思想が直結していて、ふたりの料理には共通の思想があるんだと思う。とうこさんは緑の色鉛筆が好きで、私のシャツワンピースのボタンとボタンの間に緑の色鉛筆を差しこんできた。私のアイホンを耳にあてて「はい」と言った。ピアノのアプリで遊んだ。私が白ワインをもらって飲んでいるあいだに、とうこさんはペットボトルの玄米茶をぐいぐい飲む(色が白ワインに似てる)。せいこさんが切ってくれたチーズを、切った意味がない感じで、わしづかみでぐいぐい食べる。私ととうこさんは和気あいあい、し烈にチーズを奪いあった。私のかごバッグから赤い長財布をみつけだし、またすとんとかごバッグに入れるという行為が気にいったらしく、何回もやっていた。財布のなかみを引っぱりだすのが好きらしいけど、私の財布ではやらなかった。ちょっと遠慮したのかもと思う。乳児だって、乳児こそ、遠慮すると思うから。とうこさんはぬいぐるみたちが出てくると、真っ先に黄色のしまじろうを私に渡した。私はだんだん、毎回、少しずつ、とうこさんと会うたびに、とうこさんとタメぐちになる(さいしょ、あかんぼのとうこさんと会ったときは、完全に、敬語だった)。でもまだ私も、とうこさんに遠慮しているところがある。嫌われたくなくて、泣かれたくなくて。でももっと遠慮のない関係に、これからとうこさんと、なりたいと思った。とうこさんと遊んで、たのしかった。

艸にも酒を(4/7)

晴れ。佃島を歩いた。勝どきから、清澄通りをずっとまっすぐ、ときどき脇道を縫いながら、門前仲町まで。
あとになって、どうして同じ島に「月島」と「佃島」があるのかと思って調べたら、佃島のほうが全然歴史が長いのだった。佃島は大阪の佃村のひとたちが1590年に移住してきて拓いた土地、月島は明治の埋立計画で出来た土地なのだそーだ。知らなかった。区役所のウェブサイトじゃ、月島は「ここに月の名所があったことに因んで…」なんて説明されているけど、「つきしま」も「つくだじま」も、ついでに「つきじ」も、埋立臭がぷんぷんする名前だ。なにかのはずみで「月島」が「築島」、「築地」が「月地」だった可能性も、十分あるんではと思ってしまう。
大衆食堂「月よし」で、私はまぐろなかおち、メンチカツ、マカロニサラダ。はじーはアジフライ(2枚)、豆腐煮込み、ポテトサラダ。どのお皿も山盛りいっぱい、ふたりともごはんと味噌汁がついて、合計2050円。特にまぐろなかおちの350円は信じられないくらいリーズナブルだった。そして、注文してから出てくるまで、いままで入ったどの定食やにも勝る、マクドナルドすらメじゃない、断トツのスピードであった。壁にはサインと、このお店で撮影されたFMVのポスターが飾ってある。木村拓哉が定食をかっこみながらパソコンをみているポスター、日焼けして全体的に青く染まっているポスター。
「佃島で運河をみながら飲む」といって、はじーは酒屋で缶ビールを買った。お昼時で、月島では路地のもんじゃ屋に行列が出来ていた。駐車場の脇に放置された壊れた椅子や、家々の前の緑にまみれた、黒猫、虎猫。わたしは和菓子屋でお団子を買った。醤油味の、のりを巻いたのと、みたらし。狭い店内は私の前後のお客さんでいっぱいになり、私の後ろにいたおばさんはやっと自分の番がくると、常連さんらしい口調で「混んじゃったわね」と言った。
いつかの年末だったかに会社の人たちと入ったもんじゃ屋を通りすぎた。佃島の橋のそばに二軒ならんだ駄菓子屋、両方はいって200円つかった。黄色い水飴、ソーダ味の水色の糸付き飴、串刺しののしいか、金平糖、かるめ焼き、ヨーグル、フルーツの森、プチプチ占い、梅ジャムせんべい。目が輝いてしまう。駄菓子屋の向かいの家に、また、木村拓哉の青く褪せたポスターがある。これは、駄菓子屋の隣にある、戦前から建っていそうな木造家屋のベランダで渋い顔をしている木村拓哉だ。
住吉神社で、諸芸上達のおみくじつきの、新じゃがくらいの大きさの青いだるまを買ってほくほくしていたら、壁のむこうからプープープーーーーと高音の汽笛の鳴る音がして、階段をあがると、土手の公園の向こうを長細い砂利船が横切っていった。運河の水面は川の水面ではない、海の、メディテレーニアンの、ちゃぷちゃぷいう凪いだ水面。その水面を、個人用ジェットだの、遊覧船だの、屋形船だのが、日曜の銀座のほこてんを歩く人のように、プラプラと通りすぎる。(ジェット船は高速だけどどうも呑気な高速で、やっぱりプラプラしている。)さっきの汽笛の砂利船は、これら花見舟にイラッとしてたのだろうなとわかる。土手にはひとがいっぱいで、子どもがいっぱいで、桜が満開だった。桜のことはすっかり忘れていたので、びっくりした。なんだか今年は桜のことを忘れがちだ。
私たちの斜め後ろで、まだ盛り上がらない、おぼつかない大学生の男女グループが探り合っている。男同士で買い出しにいったり、女同士でトイレにいったり。風が強くなって、プラスチックのパックや紙袋やビニール袋が、運河の手前を横切っていく。散歩のダックスフントが人の多さにきょどって、とうとう抱きかかえられている。
イギリス風の赤と青で塗られた遊覧船の屋上デッキに人間が寿司づめになっている。まるでほんとに「頭山」だ。こっちの土手で酔っぱらったお兄さんが、奇声を発して合図を送っている。寿司づめのほうも手を振っている。ここでは、こういうふうに毎年毎年まーいとし、やってきたのだろうか? たしかにただの花の下の酔っぱらいたちなのに、私にはいままで目にしたどの花見客よりも花見を心得ている人たちに見えた。東京のいちばんふるい場所のもっている何かかなぁと思えて、ジンとしてしまった。

春の風艸にも酒を呑ますべし /小林一茶

きょうの風景(3/17)

国立へ髪を切りにいって、ブルックリンに行きたくなった。いつも、店のよしださんと、外国の話をする。よしださんはいまはイタリアへ激安インテリアを調達しに行きたいらしく、イタリアの名を連呼していた(それがとっても、かわいかった)。ヨーロッパのインテリアの雑誌を何冊も引っぱりだしてきてくれて、それらの雑誌に載っている不思議な、肥大化した空豆みたいなかたちの椅子や、マーガレットの花のような円形ソファや、ながーい茎が斜めに伸びてしなっている照明器具を眺めて一緒にワクワクした。店にあるランプが載っているページもあった。
パーマをあてながら読んでいた雑誌に、ブルックリンの特集と北欧の特集があった。それでブルックリンに行きたくなった。北欧にはなぜかそんなに行きたくならなかった。