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音楽について(4/16)

「どんな音楽をききますか」と訊かれると困ってしまう。にも関わらず、同じ質問を私も人に対してする。私にとって、音楽は説明するのがとても難しい。アーティストの名前をお互いに知っていればいいけれど、それ以外のすべての場合には、それがどんな音楽なのか、言葉で説明しなければならない。ジャンルにも名前はある。例えばクラシックとか、ジャズとか、テクノとか、ハウスとか。エレクトロニカ、とか。でもわたしたちは音楽をきくとき、音楽ジャンルをきくわけではないので、フジ子・ヘミングさんのあの「ぶっ壊れそうな(これはフジ子さんの言葉)」、ぼーっとしてしまうラ・カンパネラをきいているのを「クラシックをきいています」というのはすごく語弊があると思うし、「ハウス・ミュージックをききます」と言っても伝わらなかったら「クラブに行ったりするのですが」と言い、すると「えっ大崎さんがクラブなんか行くんですか」と言われ、そのときその人が想像しているのは露出度の高い服装とかチャラチャラした熱気であったりするから、やっぱり語弊が生じることになる。
たとえば私がもっと音楽の言葉を知っていれば、ちょっとはましだろうか。「四つ打ち」とか「ビート」とか「グルーヴ」とか? でももし相手が「四つ打ち」を知らなかったら、「えーとね、ドンツードンツードンツードンツーって感じの……」ってなって、結局もうそれは「説明」ではない、きかせているのだ。音楽を誰かに薦めたいとき、私には「きいてもらう」という手しかない、でも音楽をむりやり誰かにきかせるくらい暴力的な行為もないと思う。それに、わたしが自分で人にきいてもらうことができるのは口でつくるリズムと人並みに音痴なメロディー、iPhoneのなかのとぼしいプレイリストくらいしかない。人に薦めようと思うことのあまりない、でも手ばなせない音楽もある。テレビドラマの「SPEC」にはまった時に買ったエンディングテーマとか、映画の「誰も知らない」をみたときからずっと気になっていたタテタカコさんをライブでみたときに買ったアルバムとか。そういうものは自分がその音楽を経験した場所の明るさとか湿度とかドラマや映画の映像とぴったり貼り合わさっているから、そっちなしで音楽だけを薦める気になりづらい。
音楽は言葉の手前にあるはずのものなのに、私にとって音楽は言葉のずっと向こうにある。わたしは音楽に憧れる、音楽に酔わされる、そして音楽を説明しようとおもうと、困ってしまう。


(以下、5/25追記)

ウォルター・ペイターが書いています。あらゆる芸術は音楽の状態にあこがれる、と。(もちろん、門外漢としての意見ですけれども)理由は明らかです。それは、音楽においては形式と内容が分けられないということでしょう。メロディー、あるいは何らかの音楽的要素は、音と休止から成り立っていて、時間のなかで展開する構造です。私の意見では、分割不可能な一個の構造です。メロディーは構造であり、同時に、それが生まれてきた感情と、それ自身が目覚めさせる感情であります。オーストリアの批評家のハンスリックは、音楽は我々が用い、理解もできるが、しかし翻訳することはできない言語である、と書いています。
ボルヘス「詩という仕事について」 (岩波文庫)より