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目をさましていなさい

六月は、いっぱいのことを受け取った月になった。いっぱいのことを反省した月になった。今月も来月も、きっとそうなる。「気をつけて、目をさましていなさい」だ、自分に向かって言う。「その時がいつなのか、あなたがたにはわからないからである」。
京橋のギャラリーで「声です。声なんです」という声を聞いてから、声が、すこしずつ、すこしずつではあるけど、胸に刻まれはじめた。今度のサイファーには、「コトバを連呼するとどうなる」の藤井貞和さんがいらっしゃると聞いて、そして先日わたしに、クレバとヒルクライムの違いを丁寧に説明してくれたさやわかさんが出ると聞いて、いまからすごく楽しみでどきどきする。わたしも声になる。恐ろしくて舞いあがってしまう。どきどきする。
高嶋晋一さんとまりちゃん(福留麻里さん)の言葉と身体のワークショップがおもしろかったことや、5月末のSense of wonderで全身がボアダムズの鼓動になったことや、昨日、blanclassで彫刻家の伊藤誠さんの話やその作品「BOAT・遠足・かたち」を体験してたのしく船酔いしたことも書きたい(そしてその途中でトマトジュースでめんつゆを割ったおいしいたれで冷や麦をいただいたことも)、でもきょうは、詩が詩にあったことを書きたい。
カニエ・ナハさんの「殴られる聖母M、あるいは「芸術は可能か?」と問いかける夜に浮かんだ3つのクエスチョンマークを帰結とする3つのセンテンスそして1つのエクスクラメーションマーク(…やがて沈黙S」という詩。わたしは心底どきどきした。あの冷静さ。あの劇的。わたしは文字が躍っている絵本を読むのは大好きなのに、ビジュアルの詩をおもしろいと思ったことがなかった。この詩を読んでいたら、絵本を読むときのようにわくわくした、そして絵本を読むときのように鋭くぞっとしたり緊張したりした。
ユリイカ」7月号に載っていた中田健太郎さんの「今日」という詩。一行一行を、リズムを刻みこむように読んだ。詩のすべての行間から、刻みこんで、という声が聞こえた。わたしの好きな、歩く速度。詩には、速度があるんだ。