グアヤキル国際詩祭(3)

 日本という国では、自分の国に生まれてから死ぬまでずーっと住むことがとても自然で、それが基本の生き方のように認知されているところがあるけど、国際詩祭に参加すると、それはまったく基本なんかではないということを改めて思い知らされる。すべてのプログラムが終わったあとの打ち上げの席で、クルディスタンフセインと少しお話しした。彼はいまドイツのボンに住んでいる。ふだんは赤十字で働いていて、シリアや他のいろんな場所から毎日亡命してくる人に、着るものや住む場所を渡している。そして、年に一度開催されるモロッコの詩祭のディレクターをしながら、自分も世界各地の詩祭に参加している。
 そもそも、クルディスタンという国はない。フセインにとって、自分の国とは、自分の背負っている文化のことだ。20年前、フセインはシリアから亡命した。だから、フセインのいまの仕事には、とても筋が通っている。彼の詩に、亡命を直接題材にしたものはない。亡命して、異国に住む場所や生きる道が必要な人には、まず、服や食べものが必要だから、詩じゃなくて服や食べものを届ける。そして、自分は国を失って生きているひとりの人間として、詩をかく。
 フランスから来たアダは、参加者のなかでいちばん若く、いつも長いドレスを着ていて、ひとりでいるときはいつもイヤホンしていて、ちょっとギャルっぽいところがあって、ちょっとdopeっぽい雰囲気もあって、かっこいい。スペイン語も英語もぺらぺらで、煙草をすぱすぱ吸いながら、アルゼンチンの詩人のおじさんに向かって「あんた英語下手すぎでしょ。(Your English is very bad.)」と笑いながら言ったりする。アダのプロフィールの国はフランスになっているけど、私が「(フランスの)どこから来たの?」と聞くと、いまはキトに滞在していて、その前はニュージーランドに住んでいて、自分でもどこから来たのか、もうよくわかんないと言っていた。でも彼女の詩はフランス語だった。朗読のときは、フランス語でまず読んでから、スペイン語訳も自分で朗読していた。パリを舞台にした、ジャズや夜についての詩があって、それはフランス語を遠い昔にかじっただけの私にもちょっとだけ聞きとれた。嬉しくなって「今日、あなたの詩よかった!(Aujourd'hui, j'adore ta poem!)」と言ったら、「えー、じゃあ昨日はダメだった?」と笑いながら言った。
 ミンディは台湾出身の中国の詩人だけど、ロサンゼルスにもう二〇年余り住んでいる。持っていった現代詩手帖の「旅する現代詩」特集の目次を見せたら、この人も、この人も、知ってます、と教えてくれた。ミンディの詩には、私が子どもの頃に読んだ日本の昔話とそのまま繋がるような、寓話的に語られるものがいくつもあった。私はあとから、ミンディがスペイン語のできない私たちのために、中国語のあと英語でも読んでくれていたことに気づいた。
 ミンディが教えてくれた、中国の詩祭の話。あるとき、世界中からたくさんの人を呼んで、国際詩祭をやった。ディレクターは街のあちこちを見せて回ってばかりで、朗読の場がほとんどなかった。やっと朗読会になると、会場は野外で、とても寒くて、みんなで輪になって焚き火を囲んだけど、中央で朗読するときしか火のそばに行けないので、みんな震えながら自分の順番を待っていた。ある詩人は、私はこの一回の朗読のために、わざわざここまで来たのか!と怒ったそうだ。でも私は、そうだとしても国際詩祭が行われる中国が羨ましかった。東京で詩祭ができたら、連れてきたい人がたくさんいる。詩の翻訳と、簡単な通訳のできる人が何人かいれば、詩祭はたぶんどこででもできる。
 グアヤキル国際詩祭のディレクターのアウグストは、Facebookでは私とずっと英語でやりとりしていたのに、詩祭が始まると英語を忘れてしまったかのようにスペイン語の人になった。スペイン語圏の詩人や作家がたくさん来ていたから、その豊かな世界を仕切るのでせいいっぱいだったのだと思う。
 たとえどんなに流暢に二カ国語が話せても、ことばを切り替えるのはそんなに簡単なことじゃない。私は日本を出ると、サバイバルホルモンが英語の記憶を刺激するのか、日本にいるときより英語がうまくなる。日本にいるときにはいくら考えても出てこない単語が、ちょっと外に出ただけでスルスル出てくる。ことばは通貨に似ている。私の鞄には日本語のお財布と英語のお財布が入っているけど、使わないほうのお財布はどんどん鞄の奥底に沈んでいって、取り出しにくくなる。よく使うお財布はお金やカードが頻繁に出入りして、常に新しい現代語の空気に触れていることができる。
 バルセロナの小さな文芸出版社、CANDAYAのオルガとパコ夫妻とお別れするときは、泣いてしまった。私たちはお互いのことばをまったく話せないのに、私は岩波少年文庫の「ドン・キホーテ」で感動したし、オルガは芥川の「蜜柑」が大好きだし、パコは日本の作家や詩人を教えてと言ってペンとメモを差しだしてくれた。以前、日本人に、CANDAYAは日本語でも何か意味すると聞いた覚えがあるんだよ、とパコが言った。私は、たぶん、「神田屋」のことじゃないかな、と思った。神田は本の町だから、そのままの屋号で日本でも商売できちゃうね、って私は言いたかったけど、神田という町のことを説明するだけで精一杯だった。パコは少し英語ができた。オルガとはスペイン語の単語を投げ合った。彼らと少し込み入ったお話しをするとき、アメリカの大学に勤めているマリアがいつも傍にいて通訳してくれた。お別れのとき、マリアの前でも泣いてしまった。三人とも、世界中の詩や小説を食べて、私よりもずっと多くの時間を生き延びてきたのだ。ほんとに私は、勇気をもらう。