きょうの風景(8/1)

日曜日にmujikoboで渡邊聖子さんの個展をみた。私は渡邊聖子さんの展示を、なんども見たことがある。でも、展示をみて、写真をみたのか部屋をみたのだったかわからない、とここまで痛烈に思うことができたのは、初めてだった気がする。写真をみにきたのだか赤子をあやしにきたのだか黄金町の川沿いのカウンターだけのカフェで初対面の人々と話しながらアイスチャイを飲むということをしにきたのだか、わからない、と思うことができた。「思うことができた」という言葉で思うのは、聖子さんが展示しようとしているのは、そのわからなさそのものだと思うからだ。
mujikoboという場所が、以前は特殊飲食店だったこと(それは、ギャラリーの狭い階段、細かくわかれた部屋のかたちからもよくわかる)をきちんと思いださせてくれたことが、わからなさの一端を、がっしりと担っていたと思う。窓の外で流れる緑色の川を眺め、畳の部屋の黒い壁に貼られた一枚の紙のうえの赤い文字を読んでいると、私は自分がだれなのか、とんとわからなくなってきた。

最近読んだ郷原佳以さんの「芸術作品といかに出会うか」という文章に、美術館の暴力のことがかかれていた。私はその文章を読んで〈ホワイトキューブ〉という言葉を知った。郷原さんの文章には、「中立的な「ハコ」としての美術館像、もしくは美術館への期待を表したもの」と説明されている。この文章には、美術館という制度が行使してきた暴力と、芸術作品がその暴力をどう無効にしようとしてきたかということがかいてある。
mujikoboは内装こそ真っ白と真っ黒に塗り分けられてモダンだけれど、運営者がどこまで意図してなのか、ただ偶然が重なってか、その場所の記憶をとどめて、"中立的な「ハコ」"とはちがった。それでも、暴力は確実に行使されているはずだ。そして、どんなホワイトキューブのばあいでも、暴力を行使することを単純に「わるい」ということはできない。展示物(内容)と場所(形式)の関係のこと、お互いがお互いに関わる力の強さ、想いの強さ、その関係の複雑さ、というようなことを、いま私は考えている。(つづく。)