指差すことができない一日

「毎年、冬になるほんの  前に、すなはまと呼んでいる場所に行く。意固地なくらいに、ひらがなで、すなはまと呼んでいる。呼んでいるのは私である。私だけで持っているのなら呼ぶ必要はないので、ひとに向かって呼んでいる。だれに向かってよんでいるかといったら、Sに向かって呼んでいる。」と、始まる、「微風も光線も」という詩をかいてユリイカに投稿したのが去年の冬だった。
去年、わたしたちはすなはまへ行かなかった。ことし、三崎口駅にはセブンイレブンが出来ていて、駅のトイレはきれいになっていて、いつか聖子さんがフランクフルトを買い食いした土産物店ではもうフランクフルトを売っていなかった。さざえのいっぱい入った籠や、まぐろの加工品を売っている。待ち合わせを待っている間、わたしは津波が来た場合の避難場所をあいほんで調べながら、セブンイレブンで買ったからあげ棒をロータリーの脇で食べた。
午後四時、聖子さんと、赤いニット帽をかぶった東子さんが到着して、わたしたちはすなはまへ行った。行く道の途中で、大根畑に、農家の夫婦が水か農薬かわからない白い飛沫を撒いていた。水でありますよーにと思いながら、通りすぎた。(黄色い、何のラベルも貼られていない、害のなさそうなタンクからその飛沫は出ていたから、きっと水だったことと思う。)大根畑には、白いところがまだ細い大根の領域と、もういつでも食べられそうに太い大根の領域がある。大根の隣には、キャベツやほうれん草がよく育っている。民家の建つ道を下る途中に「砂丘」という名前の宿の看板がある。前に来たときもその前に来たときもあったはずなのに、わたしはその宿の名前を初めて見たような気がした。たぶん3月に鳥取砂丘に行って、砂丘という言葉との関係が変わったせいだ。
海の水が満ちてすなはまの縦は半分くらいに縮んでいて、風は暴風で、そんな日でも、父親と小学校低学年くらいの娘らしい二人が、砂の上を歩いていた。寒いし、砂が顔面にぴしぴし飛んできて痛い。わたしは思わず東子さんの顔面の前に自分の両手で壁をつくった。東子さんが自然界に出現してから、そろそろ11ヶ月が経つらしい。聖子さんとわたしは奇声を発しながら、とりあえず何かしら態度をとることにした。聖子さんは東子さんを体の前にくっつけて、巻いていた大判のストールを翻して踊った。わたしはすなはまに寝そべってみた。最近、地面に寝そべることへの抵抗感が、どんどんなくなってきていると思う。でもこのときは、鼻の穴にも口にも砂ががんがん入ってくるので、すぐやめてしまった。東子さんは始終静かだった。まるで、すなはまの一部であるかのように静かだった。
ものの15分ですなはまから上がって、大根畑のなかを歩いて戻っていると、前方に気味の悪いような大きな満月が出て、野山に突き刺さっていた。道に落ちて汚れている二本の大根をみて、聖子さんが「わたしと東子みたい、わたしとサヤカでもいいし、サヤカとハジメでもいいけど、」と言った。大根の一本は、ぼっきり折れて半分どこかにいっている。振り返ると、大根畑の向こうに赤黒い夕焼けがどっぱーんと広がっていて、わたしたちは道の真ん中でフラッシュをたいて写真を撮りあった。
京急のボックス席で、持ってきたお茶を飲んだりミカンを食べたりした。今度は東子さんは笑いながら声をあげている。マスカット味のピュレグミの緑の袋が気に入って、ずっと触っている。それから横須賀中央の月印というカフェで塩豚のスープを頼んで食べた。月印でご飯を食べているとき、いつも、すなはまでうしなったエネルギーを取り戻すのを実感しながら食べる。聖子さんと家や生活の話をする。月印の二階で、冬の山用の耳付きニット帽と、あたたかそうなニットのロングスカートを見つけて買った。帰ると月蝕がはじまっていた。