休憩:(4)をかきながら考えたこと

 昨日・土曜日、うちへ、千葉雅也さんが遊びにきてくれた。カヴァをお土産に持って。
 千葉さんの話でおもしろかったのは、物理学は「人間にとっての物理」に関する学問なのでヒューマニズムなんだよ、という話(だったかもしれないし、そんな話ではまったくなかったかもしれない)で、わたしは物理学をそんなふうに考えたことがなかったので目からウロコだったしすっごく痛快だった。わたしがその話をきいてすぐに思いだしたのは「環境破壊」という言葉のことだった。ひとが「環境破壊」というときには、ホッキョクグマの絶滅危惧の話をしたりして、この美しい自然が破壊されるんだよ、多様な動物がいなくなってしまうんだよ、そんなことはできないよね、だから人間はもっと環境のことを考えなきゃ、という脅しをかける。でもそうではなくて、現在の環境が破壊されたら地球は新しい環境に変化するだけで、その環境に適応する動物が生き残るし、その環境に適応する新しい動物が現れるかもしれない。人間が「環境破壊」という言葉を脅し文句として使うとき、ホッキョクグマはていのいいアイコンであるだけで、それはいつだって「人間にとっての環境破壊」でしかない。もとを辿れば、わたしたち人間が地球に住めなくなったらどうしよう、子孫を残せなかったらどうしよう、という不安でしかない。そう言う人間がいくら「地球が危ない」と言ったって、主語はいつでも人間で、地球ではない。
 大島の裏砂漠を歩いていたとき、なぜあんなにも植物や岩が、いのちある(「いのちある」に傍点)ものに見えたのか、歩いていたときには、そう見えること自体がおもしろくてしかたなかったのだけれど、いま、チョット待てよ、と思った。
 中学の生物の最初の授業(清邦彦先生という蝶の研究をしている先生だった。わたしは大人になればなるほど清先生の授業を思いだすようになっている。清先生に会いたいなぁ。)で、清先生は生徒に「石は生命体か?」という質問をした。石は川の上流から下流に向かって流されながら変化する。だんだん細かくなめらかになっていって最後は砂粒になる。でも石はよくある意味での繁殖はしない。「生命体だと思う人?」と問われて、手をあげたのはわたしだけだった。わたしには、石を生命体だと思いたい、という強い恣意が、そのとき、はたらいてた。なのにそのわたしが、すごく自動的に生命体と生命体でないものの間に線引き(draw the line)して、石や植物を、人間や動物に見立てていたのだ。石を石として、植物を植物として、おもしろがるのではなく。
 目のないものに、見つめられていると思うとき、すぐに、そのものを目のあるものにたとえてしまうのは、わたしという人間の、悪い癖だ。もっと、そこへ、踏みとどまりたい。目のないものを、身体の目でない機関で、見つめ返したい。

めだまのあるいきものにろくなものはいない かぜにめだまをつけるのさ そしたらぼくはいらないひとだ かぜさえふけばことたりる かぜかぜかぜかぜかぜかぜかぜかぜ
(橘上/詩集「Yes(or Yes)」より)