私と踊って、と声が呼ぶ

声は放られる。声は投げだされる。声は、誰のものでもない。
私と踊って、と声が呼ぶ。たくさんの身体が舞台の前方に進み出て手招きする。みな、なんて朗らかな顔をしているんだろう。観客の私は客席に座ったまま、その誘いに、手招きに、声に、のせられて、腰を浮かしそうになる。けれど、その瞬間、幕が下りる。呼びかけても呼びかけても呼びかけても、願いが届くことはけっしてない。そのことの完全なかなしみ、果てしない切実さ、華奢な並木道の傍らでお酒に酔ってばか笑いしてでもなければ過ごせないようなやりきれなさとうらはらに、あんなに明るい声と身体は、私の耳と瞼の裏でまだ、誘うことをやめない。

土曜日、ピナ・バウシュ ヴッパタール舞踊団の作品「私と踊って」の公演を観に行った。なこしと。
固そうな鉄板のようなもので閉じられた舞台の一箇所にドアが開いていて、その奥で、刈られて床に横たえられた細い木の束を囲んで、ダンサーたちが輪になって手をつないで回っているのが見える。聞いたことのない、かごめかごめのような、不思議な音階の歌を口ずさんでいる。ドアの前に置かれたひとつのデッキチェアにひとりの人が寝そべって、ドアの向こうを見ている。ときどき、ドアの向こうで歩き続けているダンサーが、ふうっとこちらを見る。ドアがばたんと閉まって、入れ替わりに幕がひらく……。ダンサーたちは蜘蛛の子を散らすようにいなくなって、デッキチェアの男と、ひとりの下着姿の、怯えて立ちすくむ女が取り残される。
舞台の上の身体はみんな、黒ずくめの男たちも薄いドレスの女たちも、それどころか後方に向かってせりあがっている白い斜面も、後半、根こそぎ投げ入れられる樹木も、舞台に散らばる黒い帽子も、なにもかも、ピナ・バウシュの亡霊だった。その亡霊が誘いつづけた、私と踊って、私と踊って、私と踊って!と、そして私はその誘いにのって「私」と一緒に踊るかわりに、私の方法をきっと見つけて、ピナの亡霊と交替して、私と踊って!と誘いつづけなければならない、しかもそれは芸術の喜びを知らない誰かのためなんかではけっしてなくて、完全に私自身の健康のためになされる呼びかけでなければならない、だからこそ拒絶に負けないような強さを持たなくてはならないということを知った。
上演が終わると、私の知らないところから涙が来て、そしてきちんと私の目を通って頬を流れて落ちていった(それは2006年春の「カフェ・ミュラー」でピナが踊るのを最初で最後に観たときもそうだった)。

ひとつ前の記事で私は「(声を)人間の耳に届かせられるということの気持ちよさ」と書いた、だけどそれがほんとうに届いているか、「ほんとうに」「届く」ということはどういうことか、私はなんにも知らない。なんにも知らないということにもっともっと正直になりたい、そうでなければ、その正直さの前でなければ、言葉をおぼえることのよろこび、詩に動かされることのよろこびを知りようもない。
誰かの声が私に届いたことはある、数は少ないなりに、そのフレーズを私は心臓でとなえることができる。届いたひとつの声をとなえること、それは私にとって、山をひとつ登るようなことだ。
去年、秋の三頭山で、ブナの道を一歩一歩登っていたとき、又三郎のような風が吹いた。そのとき、それだけで、私は泣いてしまった。自分の感情を全て露わにされた気がした。そうして、山の感情のなかに自分の感情が溶けて混ざっていく気がした。(身体なんかなくなってしまえばいいのに!)という気持ちと、(この身体で、わたしはこの山のこの風に遇うことができた!)という気持ちが、同時に起こった。山に登ること、つまりは山の風を受けることと、例えばバルテュスの山の絵を見ることのあいだに、違いはひとつもなかった(だから、「実際に」という言葉は、いつでもとても嘘つきだ)。山に登るとき、わたしは山の感情に出会い、動かされる。バルテュスの山の絵を見るとき、わたしはバルテュスの山の絵の感情に出会い、動かされる。動かされるとき、誰でもしばしば、動けなくなる、山の上でも、絵の前でも。ダンサーというのは、そうして動かされるとき、つまり普通人が動けなくなるときにこそ、動ける身体をもつように、鍛錬している人たちのことを言うのではないだろうか? それとも、誰よりも正直に動けなくなる人たちのことだろうか? いいえ……その両方なんじゃないだろうか?
山の上で山の感情に耳をすますことと、ピナの舞台を見ることとの間に、違いは何もない。それは両方とも、「動かされる」ことに違いない。身体を動かされるように感情を動かされること。感情を動かされるように身体を動かされること。(私はスピノザ先生の本をもう一度読もうと思う!)
きっとあのブナの道で、私はその風の又三郎に、私と踊って!と、耳元で囁かれたのだ。
ピナ・バウシュ ヴッパタール舞踊団「私と踊って」