ちょきモヤ

この週末に河口湖に行くのがたのしみすぎて、去年行ってかいたことを引っぱりだしてきて読んで、その感じを思い出そうとしてた。

2週間前に髪をばっさり(あんまりみんなが「ばっさり」というのでそれはもしや「ばっさり」でなくて何か違う音でもいいのではなかろうかと天邪鬼に思いつつも)切ったわたしは、この首すじのすうすうした感じを連れて河口湖に行けるのがうれしくてしょうがない。

それに昨日、「ヘアカットさん」(岡崎藝術座)を観にいったら、おもいがけなく秋のおうちパーティーの日取りまで決めることができたので、わたしはいまとても機嫌がいい。

公演を観る前、劇場の外で(演出の)K里君に「髪切ったね」と言われたけど、そのときには今日の作品のタイトルが「ヘアカットさん」だなんてことは忘れていた。(たぶんK里君も忘れてたと思うけど。そういう人だ。)髪を切るときの擬音は「チョキチョキ」で、首を切るときの擬音は「ちょっきん」。からだを切るときの、なまものをつまむ感じが「ちょ-」にあらわれているような気がして、わたしは以前、髪を切る擬音を「ほきほき」に変えたファンタジーっぽい練習小説をかいたことがあったから、ヘアカットさんが「チョキチョキ、チョキチョキ」と口でいっているあいだ、(やっぱりこの音はチョキチョキでないとダメなんだ、この作品にとっては、その必要があるなぁ)と思ったりしていた。「オクラとベーコンのソテー」と「ヘアカットさん」を同じひとが演じること、一人二役とか一人三役とかいう役の決まりかたのすっきりさ加減に反比例して、「オクラとベーコンのソテー」から「ヘアカットさん」に切り替わるあいだ(というか、切り替わらないあいだ)にも舞台のうえに立っているその(どの?)役のひとをどう見つめればよいのかわからなくて、モヤモヤした。
アフタートークでK里君とはじーがパラノイアと分裂症のちがいとおなじについて話すと、その話がとてもわかりやすかったから、舞台で繰りひろげられたいろいろのことがきれいに腑に落ちてしまい、ふと気がつくとモヤモヤはどこかへ行ってしまっていた。でもそのトークでK里君が「何人かで道を歩いていて後ろから自転車が来るとよく『自転車が来た』というんだけど、僕はそれが嫌いなんですよ、なぜかっていうと僕は自分が自転車に乗っているとき『自転車が来た』といわれるのが嫌いなんですよ、目があっているんだから、せめて『自転車に乗っている人が来た』といってほしいんですよ」ということを言った。それをきいてわたしが思ったのは、その気持ちはわかるような気もするけど、わたしは車が嫌いで、自分が歩いているときにうしろから車が来ても車に対してはぜったい「車の人が来た」なんていいたくないぜ、てことだった。最近、車と自転車のあいのこのようなものが走っているのを横浜とか銀座でよく見るけど、ああいうのがうしろから走ってきたら、いったいどんな気がするだろう。