夏休みのような朝

いつのまにか、煮詰まってくるとベランダの植物をながめる癖がついている。あ、煮詰まってなくてもながめている。ゴーヤは毎朝黄色い雄花が咲く。シジミチョウと羽蟻が毎朝きて、咲いている雌花ぜんぶを点検してゆく。ベランダの向こうはアパートやマンションの寄り集まった隙間がL字の曲がり角になっていて、鳥(からす、ひよどり、すずめ)も虫(シジミチョウ、アシナガバチ、クマンバチ、その他)も猫も風もこの道を通る。ゴーヤの雌花はまだ一度も咲かない。ヤブガラシヨウシュヤマゴボウがめきめきと勝手に伸びる。ヤブガラシの泡のような花に蜂がとんでくる。(ヨウシュヤマゴボウはあんまり伸びてドウダンツツジにべたべたとまつわりつくので、はじーが根元から折って倒した。)
たまに、いろんな家にもらわれていったゴーヤや朝顔の苗のことを考える。うちのゴーヤにまだひとつも実がならないので、わたしの想像のなかでは、もらわれていったゴーヤにもまだひとつも実がなっていないことになっている。うちの朝顔にまだひとつも花が咲かないので、もらわれていった朝顔もまだ蔓と葉ばかり繁っていることになっている。

先週末は小学生対象のダンスワークショップのお手伝いで、二日間、吉祥寺へ通った。こどもにあえば、こどものことがもっとよくわかるかと思っていたが大間違いで、実際に一緒に過ごしたこどもたちのひとりひとりそれぞれがあまりに違う人生を生きているので、「こども」なんてことばではどうしてもおさまりきらない、考えられない。それなのにこどもは自分がこどもであることを熟知し、利用しようとしているから、やっかいである。そして同時に、とてつもなく興味深い。
けいこ場に通う道の途中、料亭の看板のうえに白黒のほそい和猫が飾りのように坐っているのをみた。吉祥寺はいつでもいたるところに吉祥寺らしさを孕んでいて、そのコスプレっぷりに拍手を送りたくなる。

この秋の予定が大きくひとつ決まった、嬉しい。