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結婚ということばにはいつだってびっくりする

「ずっと一緒に生活する」というのと、「結婚を前提に同棲する」というのは、どれくらい違うことだろうか。わたしは昨日まで、そのふたつを似たようなことだと思っていた。結婚という制度を通過しても、ひとりの人間どうしとしてきちんと関わりあっている人たちの例を、わたしは知っている。だから結婚しようがしまいが、そのような関係をめざすことがいちばんの大事だと思っていた。だから、誰でも結婚したければすればいいし、したくなければしなければいいように、自分も結婚してもいいし、しなくてもいいと思っていた。
昨日わたしは、これまで一度も、自分が結婚したいとも、結婚したくないとも、ハッキリ思ったことがなかったことに気がついた。でもそれは危ないことだ。ハッキリ思ったことがないということは、知らないうちに思っているということなのだから。
はじーと何年も一緒に住んでいるから「結婚しているようなもんだ」と、わたしは人に言ったことがある。それは、結婚というひとつのことばで安心したい人たちには、とても腑に落ちる、らしい。でも、はじーとわたしは結婚していない。「結婚しているようなもんだ」を使い続けていると、そのことを忘れてしまうから、今日からその言いかたはやめることにした。
一生のうち、たとえば「左翼」ということばを一生口にせずに死ぬひとはたくさんいるだろうけれど、「結婚」ということばを一生口にせずに死ぬひとはとても少ないだろう。それは、ひとが、(なにはなくとも)うまれて、成長して、結婚して、こどもを産んで、老いて、死ぬ、ということになっているからだ。でも、ひとは、ただうまれて、死ぬことだってできる。そのことは、ずっと、多くのひとに、無視されている。でもまさにそのことを、たとえば「みちのくの人形たち」や、メキシコの死児写真は、ものがたっている。表現というのは、そのことを、ものがたることだ。
「結婚します!」といわれても、わたしには、何をするのかわからない。結婚という二文字は、生活ということばを目隠しする。仕事ということばを、思考ということばを、自由ということばを目隠しする。だから、結婚ということばには、いつだってびっくりする。