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言葉の友達

男の人といるときには、わたしはその男の人の身体をみている。このことは、以前annaと一度メールでやりとりしてから、ずっと気になっていたことだった。わたしには、女の友達も男の友達もいる。そこには基本的に、何の違いもない。同じものをたのしいと思うこと、同じものを嫌だと思うこと、違う意見を持っていることについてとことん話すことができること、その会話がたのしいこと、その会話に発見があること、そういうことのできる関係が友達だと思ってきたし、この意見はいまも変わらない。でも、男の人といて、たとえば、何かあったらその人が護ってくれるだろう、わたしの手にあまることがあればその人がやってくれるだろう、ということを多分わたしだって、自分の身体の半分くらいでは、意識しているのだ。たとえばわたしが瓶のフタとか、そういうものに対して非力になるとき、目の前に誰かがいるかいないか、そしてその誰かが男であるかどうか、ということはわりと大きめに作用していると思う。たとえばわたしの目の前に、わたしが開けられない瓶のフタがあって、その向こうに男がいる場合、瓶のフタ問題は「お願い!」で済む件に早変わりする。そしてそれは同時に、その男が自分よりも単純に強い力を持っている=その男とふたりきりで部屋にいたら犯されたり殺されたりするとか、その男の運転する車の助手席に乗ったら山中に連れて行かれて置き去りにされるとか、そういう可能性が必ず、ある、ということだ。
ちょっと話はとぶけれど、きょうゾエ・カサヴェテスの映画「ブロークン・イングリッシュ」をみて、「結婚帝国」は日本だけじゃなかったんだ、と(まあ、当たり前だけど、)気がついた。主人公のノラは、30代でシングルでニューヨークに住み、仕事中心の生活を送り、母親に結婚をせかされる結婚帝国の住人で、なぜ自分にだけいい出会いがないのかということでばかり悩んでいる。でも彼女は、男とまったく「出会って」いないわけじゃない。彼女が出会った男とうまくいかないというのは、単に結婚とか交際(死語…)に結びつかないだけで、そういう相手探しではなく友達になろうと思えばなれたかもしれない。実際、映画の後半に出てくる男たちのなかには、心からノラのことを考えてくれる、とても素敵な人物として描かれていた男もいた(グロサリーで働くメキシカンのお兄さん、パリのバーで出会うおじさん)。そしてその人たちが男だった(かつ、典型的な白人でもイケメンでも有名人でもなかった)ということは、ノラにとって、この映画にとって、とても大事なことだったような気がするのだ。
この話をもういちどannaとしてみたい、それから聖子さんとも。なこしともしてみたい。彼女たちはみな、それぞれの方法で「ひとり」ということについて考えている女たちだから。瓶のフタを開けてくれる「男」を捜すのをやめ、ただひとりでいること、ひとりで何かを決めること、ひとりの時間を自分のしたいように過ごすこと。その「ひとり」の美しさを、最後にちゃんと描いてくれたという理由だけで、「ブロークン・イングリッシュ」は、ふやふやとうれしくなってくる映画だった。最後に運命の男に出逢えてよかったっていう話とは真逆の、「ひとり」どうしの、言葉の友達をみつける物語だった。