動物について(2)

「あなたは何がやりたいのか」。そう問われると、うまく答えることができない。やることと、やるべきことは決まっている。でも、何がやりたいのか、と問われると、答えにつまる。不思議で、すこし前まではやりたいことのことばかり考えていたような気がするし、その答えだってすらすら言えたような気がする。
やりたいことはたくさんある。見ていたい。たとえば海を。たとえば鳶を。何かをみている動物たちを見ていたい。そだつ芽や、揺れる葉や、ひらいてとじる花を見ていたい。広葉樹を見ていたい。流れる砂を見ていたい。そしてそれらを思い出していたい。思い出すために、鉛筆を、ペンを、動かしていたい。思い出すために、キーボードを叩いていたい。思い出すために、黙っていたい。だからわたしは、動物になりたいと願う。鉛筆になりたいと願う。
動物は沈黙している(主にほ乳類・魚類・虫)。動物はみている(主にほ乳類、鳥類)。踊るひとや、絵をかくひとも、沈黙して、なにかをみている。動物は獲って食う。動物は逃げる。動物は眠る。動物は水を飲む。動物という言葉から、動物たちははみでてゆく。
動物になるためにではなく、見ているために、思い出しているために、黙っているために、わたしはかきたい。小説をかいていたこともあったけど、いまは違う、もっと好きな別のやりかたを試している。それが小説でなくてもよかったとわかったのは、つい最近のことだ。
たぶん、これからも一生、わたしは何がやりたいのか、うまく答えることはできないだろう。見ているための、思い出しているための、黙っているための、そのときのわたしにとって最良のやりかたを、いつも捜しているだろうから。

あいまいもこは、限定されないで、どっちつかずで、はっきりしないことです。建築か庭か街か、内部空間か外部空間か、建物か衣服か、遊びか仕事か、今か昔か未来か、完成か未完成か、秩序があるのかないのか、部分か全体か、本気か冗談か、生徒か先生か、誰がデザインしたのか、…私たちはこのようなことがらについて、あいまいもこな世界に住み続けていきたいのです。
―富田玲子「小さな建築」より

小さな建築

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