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○○から遠く離れて

女性誌には女にしかわからないことが、男性誌には男にしかわからないことが、載っているということになっている。でもそれだと、動物でないわたしには動物の気持ちがわからない、植物でないわたしには植物の気持ちがわからない、ということになってしまう。でもたとえば、「家でもないのに家の気持ちがわかるわけがない」としたら、『ちいさいおうち』なんてかかれなかったはずだし、ポニョはさかなの子だし、『母をたずねて三千里』は日本人がつくったジェノバっ子のマルコが主人公のアニメだ。何十年も前にヨーロッパのどこかの軍隊で、男のだれかが着ていたジャケットを、今年代官山の店で20代女性であるわたしが買ったりすることはたのしい。最近、「母」「娘」「結婚」「女」についてかかれた二冊の本をたてつづけに読んで、そんなことを考えていたのだけど、そのことが、この記事にとてもわかりやすく書かれているので、転載します。

両親に、そして社会に言われた/言われることのすべてに「男である自分/女である自分」が刻印されていた/いる。ご飯の食べからから、座り方、なにを着るかはもちろんのこと、なにをどんなふうに言うのか、するのか、考えるのか、すべての教えには常に「男であれ、主人であれ、主体的であれ/女であれ、奴隷であれ、非主体的であれ」という命令が働いている。そしてわたしたちは絶望する、男であることに/女であることに。そしてたいていの場合、自分は「男ではない/女ではない」と思うだけではいられず、とどまることができずに、わたしは「女である/男である」と、ただ単に主人と奴隷の関係が反転しただけの「である」にまた逆戻りする。当然といえば当然のことで、自己を否定すること(=意識すること、絶望すること、抑圧すること)はかならずや痛みをともなうものであり、自己と引き裂かれたままであることはつらいことだ。けど、そこにしか精神はない。自己との関係の中にしか精神はないというより、自己との関係そのものが精神であり自己である。それを「内省」と呼ぶのも「自己意識」と呼ぶのもあなたの自由だが、それはよく言われるように自己の中に閉じこもることではなく、自己を自己の中へと開くことである。自己を自己の意味に、複数の自己「でない」自己に、関係に、死にさらす/さらされることである。 記事全文→
時代の余白 横田創

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