耳をすます

耳をすますことが、責任を負うことであるなら、私たちは、私たちがいちばん愉しいと思えることがなんなのか、いつも耳をすましていることです。お祈りを唱えるときのように、「フラニーとゾーイー」の最後の数ページを読み返しながら、そんなことを思いました。さっき、annaに結婚式の出欠の返事をしたときも、金曜日に聖子さんが作品を編集しにうちに来たときも、同じことを考えていたのでした。
私は、スポーツ選手たちが「たのしく競技することができた」ということを大事にしはじめたことは、とても大きなことだと思うのです。練習が辛ければ辛いほど頑張ったことになるのではなく、たのしくなることに集中すること(耳をすますこと)が、自分の競技に(=生活に=人生に)責任を負うことになる。「たのしく競技することができた」という言葉は、言い換えれば「自分で考えることができた」ということです。私がプロ野球をいつまでも嫌いなのは、負けたことを「国民の皆さんにすみません」と言ったりして、いつまでも自分たちの悔しさやたのしさから逃げ、つまりは自分たちの競技の責任から逃げているからなのです。