心強い朝顔/ドンチョーの純粋

朝顔はついにベランダの天井に達しました。まいにちまいにち、上へ上へ這っていくこの朝顔の全長は、もう私の身長よりもずっと高いのです。まったく、植物と動物はどれほども違いません。動物と人間だってどこに境界線があるかよくわからないのだから、植物と人間もとても近いように思えてきます。ある朝自分の背中に根が生えて、ベッドから起きられず、気がつくと腕が伸びてつるのように本棚に絡まっていたとしても、つゆほどもふしぎではない気がします。ある本には、植物と動物はもともと同じところから発生して、お互いにお互いの本質を残しているし、人間が宗教を持ったのは、動物に身を守る本能があるのと同じことだと書いてありました。
いま、深沢七郎「千秋楽」を読んでいます。いつかずっと昔にはじーが買ったのであろうこの文庫版の古本は、ページがぜんぶ濃い茶色にそまっています。でも、その濃い茶色が、なんだかドンチョー(主人公の役者)にとてもよく似合う気がするのです。ドンチョーは師匠の代役で、自分がいままで出たことのない、大きな舞台に立つことになります。洋物で新しい、ドンチョーになじみのない業界の世界は、このまえテレビでみた阿久悠のドラマの世界によく似ています。ドンチョーはふるい人間で、その劇場のメインのショーであるストリップを軽蔑して、(ハダカなんて)と思っている。でも、あることで、ハダカのうつくしさを知ることになります。それは、「芸のうまさ」ばかりを大事と思っていたドンチョーが「芸の強さ」というものを知った瞬間として、描かれています。
それまで軽蔑していたようなものが、突然うつくしくみえる、それまで自分には関係のない、と思っていたようなものが、突然自分の人生ぜんたいを揺さぶるくらいの力を持つ、そんな経験ができること自体が、ドンチョーの芸を支えているように思えます。自分にひとつの芸がある、そのこころづよさと、自分と同じ部屋(楽屋)にいるほかの芸人の腕にひとつひとつ感心できるすなおさと、両方が両方を支えている。そんな経験ができるのは、ドンチョーがひたむきに一所懸命、自分のするべきことをするぞ、とだけ決めているからです。ぱっと、(ドンチョーの純粋)という言葉が浮かびました。
朝顔の先端は、きょうも新しい空間へと伸びていきます。朝顔は、自分がどこへ伸びるかなんて知らなくても、伸びるということだけは決めているから、大丈夫なのです。