永遠かもしれない

その演劇のキャッチコピーは「心配になるくらいの事よ、起これ!」である。漫才師の男の妄想のなかで、生きてる設定の人も死んだ設定の人も関係ない。つっこみがいつまでも入らないから、妄想はいつまでも止まらない。だってつっこみ役はその男自身なんだから。とにかくおもしろくて笑っていると、だんだんそのおもしろさの凄さに唖然として、笑えなくなってくる。ほんとうに心配になってくる。突然、タイトルが脳裏によぎる。永遠かもしれない…。
トぶために言葉はある、と私は思うから、燃やし尽くされるために論理はある、と私は思うから、やまもっちがあんなに激しくシベリア少女鉄道を薦めてくれた理由が、いまとなってはよくわかる。あの上映を観た日、はじーと私は盛り上がったままやまもっちの部屋に行って、そのまま“シベ少”の過去の作品を二つ観た。私は眠くなって、断片的な鑑賞になってしまったけど。

金曜日の夜、あの茅葺き屋根の二階で素晴らしくおいしい山菜フルコース(わらび、ふき、こごみ、たけのこのてんぷら、信じられないくらい頭の柔らかいヤマメ甘露煮、おいしい白いご飯、イワタケとゆずときゅうりの酢のもの、ふきとジャコのきんぴら、お吸い物、たけのこのさっと煮たの)をすっかり食べてのんびりしていたとき、K里君からはじーに電話がかかってきた。はじーは「ざんねん、いまねー、秩父に来てるのよ」と笑いながら言っている。K里君は今週もうちに泊まりに来ようとしていたのだ。寝ころがってにやにやして聞いていると、電話を切ったはじーが「ちゃき、なんか『してやったり』って顔になってるよ」と言う。

私は私の燃やしかたを、ぐるぐるぐるぐる、さがしている。