昨日予約した「博物誌」をゲット。楽しみである。切迫した時事的な問題を、窓の外の騒音としてきくこと。あるいは、時事的な問題のただなかにあっても、遠い轟音のように古典をきくこと。
わたしが19世紀的な蒐集を愛している理由は、その蒐集者にあくまでも実用的な目的があるということが、ほぼすべてであると思う。そして残りの理由は、彼らに、私と同じ飽きっぽさを感じるということ。それは子どもの蒐集、子どもの好奇心、子どもの飽きっぽさなのだ。「年をとった鰐」の語り手の父親は息子に物語を(つねに新しい、子どもを飽きさせない物語を)語ってやらねばならなかったし、「ブヴァールとペキュシェ」のふたりは、いつもその膨大な蒐集と実験によって、よりよい生活が目指せると信じていた。わたしはリカちゃん人形の生活を思い出す、服を着せて、脱がせて、靴を履かせて、脱がせて、髪をとき、結び、ほどき、お洋服の山の中から別の一着をつまみあげて、また最初から…。大プリニウスは、紀元後1世紀のひとではあるが、かれもきっと、ただの子どもなのではないか。この大きく分厚い、ずっしりした本を、これから読めるかと思うと…誰かの言っていたように、よだれがとまらない。

プリニウスの博物誌 全3巻

プリニウスの博物誌 全3巻