あとの祭り

 池袋で白神ももこさん演出の『春の祭典』を観た金曜日、ちょうど多和田葉子さんの新しい小説『献灯使』を読んでいた。

 しろっぽくて直線的で平面的な、つまりはとても人工的に見える舞台のうえで、極彩色でパワフルなくせにどこか抑揚のひらべったい盆踊りをダンサーの集団が踊る場面から始まる『春の祭典』。たくさんのことが舞台上で起こっているのに、私の心はなぜか平然としていた。まるで、試験管のなかに培養された祭りを観ているみたいな気分だった。

 ストラヴィンスキーの音楽が、ヒューマニズムをなぎ倒してゆくブルドーザーみたいに響いていた。舞台中央の頭上には、高速道路の誘導灯が斜めに吊り下げられている。こうして近くで見るとそれはとても巨大だ。でも私は驚かない。驚けない。こんなこと普通なんだ、当たり前のことなんだ、と頭のどこかから全身に信号が発信されている。こんなに巨大なものを何とも思わず高速で通りすぎる世界、めちゃくちゃな世界に私たちは普通に平然と生きているんだ。舞台のスペクタクル加減とは裏腹に、静かな気持ちで私は思った。

 『献灯使』は、鎖国した日本のどこかの仮設住宅で、ひよわな曾孫と暮らす義郎という老作家が主人公だ。この小説を読んでいると瞼の裏に浮かんでくる人工物のしろっぽさ、動物や果物がとても貴重でめったに見ることができない感じ。ひととひとが監視しあって、自由にものが言えない雰囲気。近未来の話のようで、実はこの国のどこかではもうとっくに起こっていそうなこと。ひとつの文化が終わって、しばらくしてまた再生するときに何かが少し歪む感じ。そのひとつひとつが、今回の『春の祭典』の様々なシーンと重なって見えた。

 たぶん、このふたつの芸術を併行して受け取っていることは偶然じゃない。どちらの作品も、何かとりかえしのつかないことが起こった後の世界を—“あとの祭り”を、冷めた目で描いている。もう絶対に戻れない世界はすぐに、誰も知らない世界になってゆく。あとの祭りの世界では、自然の定義が変わって、栄養の摂りかたが変わって、いけにえの捧げかたも変わって、それでも同じこととしてライフサイクルを繰り返していく私たちの、かなり強引な意志のようなものを感じる。それは希望なのか絶望なのか、まだよくわからない。いつかわかるときがくるのかもわからない。

 『春の祭典』の冒頭、まだ舞台が暗いうちに、なにかたくさんの小さい生命の呼吸のようなものが会場を埋め尽くし、それがやがて動物の鳴き声になり、ひとがことばを叫ぶ声になり、それから平準化されて一本の声音になる——、あの冒頭が懐かしい。あの冒頭にずっといられたらよかった、と私は老人のように思った。

 

2014/11/14
白神ももこ×毛利悠子×宮内康乃
春の祭典』@東京芸術劇場 

官能的な演劇

俳優の仕事ってなんなんだろう。岡崎藝術座の演劇をみるといつもそのことを思うし、今回「アンティゴネ/寝盗られ宗介」をみて、ほんっと、なんなんだろ?と思った。俳優は、演出家の指示を受けて動く。やれ、と言われたことを受けいれる。すべてを受けいれることが俳優の仕事だとしたら、俳優は俳優そのものであるまま「アンティゴネー」のアンティゴネーであり、また「寝盗られ宗介」の座長だなぁ! アンティゴネ—はクレオンの命に背いてまでも神の命を受けいれる(つまり自分の属する国に反逆したからといって自分の兄との関係を断ち切らない)し、座長はレイ子をどんどん男に寝盗られても断固としてレイ子とも男たちとも関係を断ち切らない、どころか、ついには男の親戚の飼っている馬のアオの鼻をなでてやる約束をしてあげる。座長はアオのことを頼んだ男に言う、「こんな男は世界中どこを探してもいない、俺が最後の男だと思ってくれ」と。それはパンチラインで、観客はみんな笑うけど私も笑うけど、涙が出てくるよーと思う(これはほんとに、つかこうへいの台詞の凄さだと思う)。だってそれは、座長が自らの意思で誰かとの関係を断ち切ることはありえないという宣言であると同時に、そんな人はどこにもいないよね、というしみじみした述懐でもあるのだから。でも、そんな人はどこにもいなくない、俳優ってそんな仕事なんだ、きっと。少なくとも岡崎藝術座の作品における俳優の仕事は、どこまでも役を受けいれるという、ただそのことに尽きてると思う。今回の作品には、そのことがもっとも顕わになるテキストが二つ選ばれていたと思う。自分からもっとも遠い場所にいる誰かと契約をむすぶひと、それが俳優=アンティゴネ—=座長なんだ。そして、俳優=アンティゴネ—(は神と契約することでクレオンも伝令も自分のうちに含みこむ)=座長(はレイ子もジミーも自分のこととして面倒をみる)が喋り、動くと、髪は乱れ、コップから水がこぼれるように汗が滴り、汗の臭いと湿気が充満し、敷布は縒れ、息づかいが荒くなる。でもそれは、誰の髪だろう? 誰の汗で、誰の息づかいだろう? わからなくなりながら、目や耳で受け取る以上のことを私は受け取っている。「アンティゴネ/寝盗られ宗介」は、官能的な演劇だった。

4/23 岡崎藝術座
アンティゴネ/寝盗られ宗介」

すごくよくてすごくダウナー

日曜日、チェルフィッチュの「現在地」という演劇作品を観た。劇中に出てくる台詞で「私、ふるさとって言葉の感触って、なめくじみたいだって思っちゃうの。」というのがあって、あまりにも的を射ている(つまり、私がふるさとということばに感じてる感触というのはこれだったのか)と思って、その台詞を何度も口のなかで繰り返してしまった。
ミニマムな動き、ものごとのゆるやかな経過だけが示されるような動き(ゆっくりと曲がっていく女優さんの背骨や、昼の月に雲がかかってそれからまた流れて去ってゆく映像)があって、こみいった状況についての会話が続いていくのだけれど、落ちついて聞いていれば、どの言葉もはっきりと、皮ふに貼りつくように、きこえてきた。サンガツアンビエント音楽が静かでそわそわした気分にぴったりと寄り添ってきた。
観たあと、一緒に観たふたりに「すごくダウナーな気分になった」と言ったら、「そうだね、大麻系だったねー」とはじーが言った。すごくよくてすごくダウナーな気分になる演劇って、あんまり観たことがないと思った。というか、わたしは根がダウナーなので、自分の素の気分のようなものにこんなに近い表現をなまで観たということに、やっぱりただただ、驚いていた感じ。
とくに、彼氏と青く光る雲をみた女の子のエピソード(彼氏はその雲をロマンティックなものだと思い、女の子は不吉なものだと思う、その感じかたのずれのために、女の子は彼氏と別れてしまう)を、私はこれからもけっこういろんな場面で、思い出しそうだなと思った。そういうひとつひとつの、人と人とが言葉を交わすときの微細なずれみたいなものをどこまでも細かく検証していって、それがある状況を揺り動かしていくということを、こんなに丁寧にこんなに静かに、演劇で描くことができるんですね。すばらしかった。

4/22 チェルフィッチュ
『現在地』